連載3
近代日本化学工業草創秘史

カザレー法アンモニア合成(3)
創業の風光

                         市山 幸作*
Kousaku Ichiyama (元)旭化成工業且ミ員
(元)延岡市議会議員 (元)延岡商工会議所議員
 
 3.5 アンモニア合成工場の試運転開始
 機械の据え付け作業はますます拍車がかかり,『アンモニア』の呼び声も高くなり,谷口工場長,島田建設部長の姿も毎日現場に見られるようになった.装置が一部完成すれば直ちに試運転を開始.合成工場は8月から一方では試運転,一方では据え付けと,目まぐるしい作業となった.
 主要機械の試運転状況を記録してみる.
 圧縮機は9月3日窒素ガスで試運転開始.
 〔9月7日〕9月3日から第1,第2号循環機並びに合成塔の水圧試験を開始し,1,500気圧の耐圧試験完了.
 〔9月17日〕この日から合成係勤務者全員2交代で機械調整を行い,混合ガス圧縮機,循環機のすり合せ運転に入った.機械製作会社派遣のフランチスキー氏は,750気圧の高圧試験のため各員に注意指導に努めた.
 〔9月28日〕第2号合成塔内管並びに触媒円筒を挿入,組立を開始.
 〔9月30日〕この日で計量器関係,圧縮機,循環機の運転を一応全部終了.
 〔10月2日〕水素,窒素の両ガスタンクのブロワーを運転,混合タンク(1000立方メートル)の使用を開始する.
 〔10月3日〕第1号合成塔に触媒を挿入,上下の大カバーを締め付けて組み立て,清浄塔には乾燥木炭を入れ組み立て終了.
 〔10月4日〕圧縮機も混合ガスで750気圧の試運転を実施した.当日の6段式串型高圧圧縮機の目盛は次の如くである.1段2.2,2段8.8,3段28,4段87,5段270,6段750気圧と作業日誌に記るされている.総ての準備が完了した9月3日,谷口工場長は全従業員に次の通り指示した.
 (1)各工場も試運転が開始されるにつき,連絡工場間に於ても責任者の許可なくして入場を厳禁する.
 (2)自係に於ても自己の担当せる機械以外は決して手を出さないこと.また職員一同を食堂に集め『これから製造試運転に入るが,大学でもカザ
 
レー式アンモニア合成法は本に書いてないので君達も全員が技術者になった気持ちで注意して作業に従事してもらいたい』と訓話があった.
 一方,発明者カザレー氏とカザレー社の代表レプレスター氏は,震災で横浜に上陸出来ず,神戸港に上陸,大阪本社で打ち合せを済ませ,9月10日に延岡着.向陽クラブを宿舎兼製法指導本部としたのであった.

 3.6 触媒工場
 アンモニア合成に最も大切な触媒製造は大正12年9月4日,サンタゴスチーノ氏と谷口工場長により着手された.
 初めは電解水素もなく,鉛工用水素発生機と壜詰酸素を使用して製造.連日,青色硝子をのぞきながら進めたが磁製の坩堝は亀裂破揖が多く一頓挫をきたしたこともある.しかし,その翌日カザレー氏が来延,谷口工場長は建設中の工場を案内後,直ちに触媒製造の特別室に入り,経過を報告して指導を受けた.9月14日から触媒部門はカザレー氏を迎え,サンタゴスチーノ,谷口両氏とで製造がつづけられた.このように発明者自身がアンモニア合成の成功のために,一片の鉄塊にもその全精魂を打ち込んだのである.
 大正13年7月から白石研究部長も担当し,その後は工藤,北村,掘内氏等の製造課長にうけ継がれた.従業員には『一切口外無用』と厳しく指示されていた.

 3.7 アンモニア工場操業開始
 アンモニア合成工場のスタートは大正12年10月5日であった.既に窒素,水素の両原料ガス工場の試運転は好成績のうち完了し,アンモニア合成工場の各機械装置も試運転完了.合成塔にはカザレー博士と谷口工場長の汗の結晶である触媒が充填完了し,合成塔のスタートを待ちかまえた.
 窒素係,電解係は午前中から運転に入り,原料ガスタンクも充満した.合成係の計容器室のルーツブロワーは午後1時23分運転開始.窒素,水素の両ガスタンクから合成工場へ混合ガスが送られた.午後1時25分,第1号混合ガス圧縮機は500馬力のモーターで唸りをあげ,10条のロープにより毎分144回転で運転を開始した.午後1時40分,カザレー氏の手により中型バルブが開かれ,徐々に合成塔へ高圧混合ガスを導入した.窒素,水素ガスの混合割合25.82%(窒素)と,74.18%(水素)が分析記録されている.合成塔室の各装置メーターが480気圧となって循環機はバイパスを全開.無負荷運転を開始した.こうした状況を見ながら運転を指図していたカザレー氏は午後2時30分,その白皙美顔の瞳を輝かしながら合成塔スタート用電熱スイッチを入れた.
 この感激の一瞬を谷口工場長は操作バルブの前で見守っていた.工藤宏規,北村忠義,荒木淳三,片桐考一の各氏が合成塔操作手で,黒宮,大平,清水氏はガス分析手であった.圧縮機には牧口徳蔵氏,その他木下,平松,小牧氏ら試運転に従事していた人々が低圧側と高圧側に並んでシリンダーの注油状態を見ながら各段(六段式)の圧力計を注視.まさに緊張の連続であった.外人組4人も圧縮機組と合成答組に分かれて運転するという方式がとられた.
 電熱挿入後は合成塔の温度も漸次上昇し,循環ガスは塔から冷却器高圧液化分離器と循環し,塔内触媒の還元が始まり,循環ガス中のアンモニアガスの分析が0.21%と初めて記録されたのは午後

 
4時30分.
 当時の分析手は黒宮氏で,この報告をうけると工藤,北村両氏は冷縮前の小型バルブを開き,アンモニアの匂いをかぎ『出来た.出来た』と叫んで欣喜雀躍.操作バルブの前に立っておられたカザレー博士,谷口工場長も微笑の中にも緊張そのものという表情で指揮をしたのであった.
 接触管のパイロメーターは300℃以上を示していたが,午後5時,メーターが不良となり,これを修理するためいったん操作を中止し,午後6時から再度運転し塔内圧力は600気圧となったが反応が進まないため製造は中止された.
 この日,低圧アンモニア受器から採取した液体(還元水+アンモニア)は50リットルであった.
 谷口工場長と幹部は向陽クラブに待ちかまええる野口社長に報告.カザレー博士ら一同と乾杯して喜んだという.従業員は工藤係長が延岡市中町の喜寿亭に招待し,一夜の慰労でさらに将来の努力を誓い合ったのであった.

 3.8 アンモニア合成の苦闘
 合成アンモニアの製造は谷口工場長が製造課長を兼務し,係長には8月15日付で工藤宏規氏が発令された.延岡で10月5日初めて臭気をかぐ程度のアンモニアが出来たが,これからが大変であった.
 カザレー氏にしてもこのような大規模のものははじめての操作であり操作基準などもなかったので,工場首脳部間には議論続出.実際の運転によって,ひとつひとつ尊い体験を通じて操作基準を確立するより方法はなかった.Aは『電熱を多くかけ触媒塔の温度を上げねば駄目だ』という.Bは『電熱は徐々に加えて循還ガスを加減すべきだ』という.このような意見が10月6日からの実際的操作で毎日の経験によって解決していったのであった.
 当時の当直日誌によりその苦闘の模様を記録する.
 〔10月6日〕 第2号圧縮機で第2号合成塔が午後2時から運転を開始したが,電熱を急激に加え過ぎたため電熱コイルが焼け切れ,午後5時運転を中止した.
 また,この日は混合ガス圧縮機も調子が悪く,循環ポンプもパッキン部からガスの漏洩があり,この高圧工業の前途は非常に多難なるものを思わせた.この日の循還ガス中のアンモニアガス分析は0.8%であった.
 〔10月7日〕 第2号合成塔のヒートコイルを午前中に取り替え,午後2時15分から7時まで運転したが,アンモニアガスが0.27%で改善はなかった.
 この日午後10時30分,第1号ヒートコイル取り替えのため合成塔低部フランジ取り除き作業中ガスが噴出.アンモニアのドレンのため北村氏ほか三人が負傷するという初めての事故が発生,負傷者のうち三人は出勤出来るようになったが東栄吉氏はこのため一眼を失う結果となった.
 〔10月8日〕 塔内圧力を700気圧とし午前10時30分まで運転,アンモニアガス分析はこの日最終には5.2%となり希望の光が見えた.この日までに出来た液体は110リットルであった.
 〔10月9日〕 第1号合成塔を午前8時30分から午後7時30分まで塔圧700気圧で運転,アンモニアガス分析は最終には8.16%を示す.割合い生成能率がよく593リットルの液体アンモニアを製造

 
し,はじめて硫安係に輸送することになった.これはカザレー氏もよほど嬉しかったとみえ,硫安係の受入タンクのところのパイプを握り,輸送の微音とパイプ温を検査し,感激の表情であった.
 ここで10月10日から5日間,いったん全工場の製造を中止し,各装置機械の大補修に入った.
 〔10月15日〕 再度製造準備完了.再び運転を継続することになった.
 カザレー,サンタゴスチーノ,ドットウ,バラレスの諸氏も前夜勤などに出て来て実際の作業変化を合成係の幹部とともに熱心に検討した.
 またサンタゴスチーノ氏が電熱用の電圧電流の表を作成したのもこの時である.
 午後2時から合成塔運転開始・午後9時ヒートコイルが切断し止むなく運転中止.以上のようにヒートコイルが絶えず切断するのでこの方面に論議が集中.コイル構成の純鉄線の大きさ,長さ,電圧調整器の能力にまで論議は及び白石工場次長(電気関係主任)も絶縁試験ヒートコイル製作など合成係に応援されたものである.
 〔10月19日〕前勤より引続き第1号合成塔運転.午後10時,アンモニアが生成し始めアンモニア分が4.35%となったが操作失敗.反応温度が低下し運転を中止した.この日,152リットルの液安を製造した.
 〔10月21日〜22日〕 圧縮機,循環機合成塔装置各部を補修.
 〔10月23日〕再び製造に入ったが各部不調のため停止した.
 〔10月24日〕第1号合成塔を昼勤に運転したが合成塔上部サーモカップル部ガス漏洩のため中止.第2号合成塔を午後6時30分から運転.アンモニア分析12.3%となり,前夜勤より後夜勤にかけ好調を示す・液安1,298リットルを製造し硫安係に輸送することが出来た.ここにはじめて多量のアンモニアを低圧受器(40気圧)の硝子ゲージを通して見ることができ,さらに製造への希望の光となったのである.10月25日以降の作業成績は向上したが,運転時間少く畧す.
 〔11月2日〕第1・第2号圧縮機シリンダー部故障にて総分解,製造一時中止.全員,日勤勤務に変更,補修整備にかかることになった.
 〔11月18日〕第2号圧縮機修理完了,製造開始.アンモニア製造漸次好調となり,計量器室に対し次の注意事項が発せられた.
 混合ガスタンクの混合ガス量は中以下に保ち,混合割合の変化を鋭敏にし圧縮機の運転に支障なからしむること.
 〔11月9日〕昼勤8時間でアンモニア2,896リットルを製造,これは創業以来の大量生産であった.
 このようにしてカザレー式アンモニア合成の工業的成功がはじめて確信づけられた.指導中のカザレー氏も満足され,自己の発明が機械的装置の部分的問題さえ解決すれば必ず成功するものと信じ,さらに研究を進める決意を新たにしたのである.野口社長も来延しており,いろいろと打ち合わせをし今後の製造を谷口工場長に一任.
 カザレー博士は,大正12年11月10日に延岡での自己発明によるアンモニア合成の苦心の思い出を残し,帰国の途につかれたのであった.
 
 さて,このカザレー氏出発の日後,夜勤に一大事が突発した.北村氏が責任当直で第1号合成塔を運転中,2時ヒートコイル挿入部のターミナルがショートして大音響とともに猛烈な火焔を上げて燃え上がった.初めての事故であり驚きながらも窒素ボンベを塔上に担ぎ上げて吹かすほか消火器を使うやら,悲愴な気持で作業員とともに火焔と戦い,2時間後の午前4時に排気落圧とともにようやく鎮火した.
 小生も北村さんとは三交代が一緒で,合成係に出入りし,電解係の水素原料ガス製造の係員であり二人の勤務であったが,この時ばかりは地震ともつかぬ大音響で腰がぬけるような気持ちで蒸溜水のタンクの鉄柱につかまった.
 排出する高圧混合ガス音と火焔は青白く猛烈なものであったが,気をとり直し変流工場,電解工場の運転を中止し,水素タンクの下のバルブを閉塞し合成工場の鎮火を見守る始末であった.おわりの頃は合成の恒安寮の連中もかけつけ消火につとめたが,室から出て来る顔は真っ黒で無言であり,奮闘の様子がその姿でわかった.
 その後もアンモニアの製造は苦難の道をたどり,各所の故障続出で連続運転は困難な状態であった.北村さんとは当直が一緒であり『これから運転するから電解を運転してくれ』と連絡があると,配電と交渉して電力を要求し変流機を運転する.
 1時間もすると『ガスタンクが充満したから停止してくれ』という.合成は『機械故障で駄目だ』と指令がくる.こうしたことの連続で何時も電解の係員は配電の係員と喧嘩口論であった.
 このころは,電気は総て鏡工場使用の発電所の電力を社長命令で延岡優先使用ということであった.このため鏡工場ではカーバイドの運転を増減して止めたり廻したり調節されたもので,先方でも電気炉の運転は大変であったと思う.北村さんに『故障修理の予定は何時間ぐらいですか』と訊くと『今のところわからぬ,タンクの上昇をみて電解を調整してくれ』とのことで,寒空の月をながめながら通過電流を加減する始末であった.
 11月初めごろ『アンモニア合成は工業的失敗で駄目だ』という一部の声も出て,『アンモニアが出来たら昇給する』とか『事務所をつくるとかも駄目かなあ』と不安な気持になる一面もあった.しかし青年・工藤係長(25才)ほか合成係全員の若い旺盛な意気は,谷口工場長指揮のもとに結集し,製造への熱意は一段と高まり,11月14日には10分間に55リットルの液安を造り得るようになった.
 〔11月19日〕 大正12年3月以来,アンモニア合成工場建設に苦労奮斗したサンタゴスチーノ氏,ドットウ氏,バラレス氏,フランチスキー氏の四人が一応延岡派遣の役目を果し,故国イタリヤに帰ることになり合成係の一同と別れを惜しんだ.この時,先に帰国したカザレー氏の依頼によりアメリカにカザレー式アンモニア合成建設の資料として日本で初めて工業的に製造を開始した延岡工場の配置並びにその他の図面を谷口工場長はサンタゴスチーノ氏に託したのであった.
 〔11月29日〕 補修に入っていた工場も再度製造を開始し,全員の熱心な研究操作の結果,12月15日に至り2,175リットルを製造.その後は運転さえすれば1,000リットル以上の液安が生産を見る
ようになった.
 
 〔12月27日〕 ここで大正12年の歳の瀬もせまった頃工藤係長他幹部が集まり今までの経験を生かし,触媒還元よりアンモニア生成に入るまでの操作基準がつくられた.
 以上のようにして建設からスタートヘの思い出多き大正12年も暮れ,大正13年の新年を迎えた.元旦は「ましや」で社員一同新年宴会をし,正月2日から気持を新たにしてアンモニア合成に挑むことになり,1月14日に短時間ながら初めて電解工場に10,000Aの通過電流を要する水素を消化するようになった.これを連続運転に換算すると約5トンのアンモニア生産ということになる.
 〔1月15日〕 電解電流12,000A(短時間).1月16日,電解電流13,000A(短時間),こうした勤務が続き生産は次第に向上していった.
 〔2月5日〕 この日はさらに好調を続け,水素発生通過電流は12,000A〜14,000Aが要求されるようになり,原料ガスの不足を期すようになった.当時五ヶ瀬発電所は未完成であり,電力は緑川,内大臣両発電所から受電していたので鏡工場との調整はなかなか思うようにならず,電解係の電力交渉は苦労の種であった.4月に入り15,OUOAを要求.5月には17,000Aも必要とするようになり,今までの苦心は遂に約7ケ月振りに実を結びアンモニア合成への延岡工場全員の念願は大成功をみるとともに硫安の肥料工場として確固たる基礎が出来たのである.
 しかし,合成係の高圧圧縮機の運転や循環機の運転は,パッキン部よりのガス漏洩は時により高音を発し,『シュシュ』『ブスブス』と甚だしいもので工場内では伝言は出来ず,また潤滑油とアンモニアの臭気ある噴霧は煙のように室に充満し大変な作業であった.
 特に皮ふ病のあるものは針でさすようで室から飛び出す始末であった.またアンモニアゲージ硝子が破損した時は,外を通る荷馬車の馬は特にアンモニアの臭気に弱くたおれることもあった.
 作業は今のように労働基準法も何もない時であり,8時間立ちづめで食事弁当も現場で立食いであった.アンモニアの臭気の甚だしい時は,ご飯が黄色く変色することもあった.
 こうした悪戦苦斗の作業も圧縮機,循環機の改造やパッキン部の改良で一つ一つ解決するより外に道はなく,苦難の作業は以後も当分続いたのであった.

 3.9 アンモニア合成工場の拡張
 アンモニア合成工場の拡張が野口遵社長の英断により,はやくも大正12年10月には第2期増設を決定.11月19日には第1期と同型の圧縮機,合成装置各2基をカザレー社に発注した.
 当時の発注明細書と金額の資料によると,第2期アンモニア合成機械装置152万5千リラー.別に予備品は未定で後日注文する.納期は5カ月以内にイタリア積出しのこと.
 スタートに苦心された北村忠義氏も『あの当時の製造状態で野口さんはよくも倍増を決定されたものだ.野口さんの先見の明にはただただ驚くばかりだ』と述懐されている.
 第2期増設工事は第1期工事の経験から総て順調に進捗した.据付を開始したのは大正13年8月で,第3号,4号の高圧混合ガス圧縮機,および合成装置の試運転が完了したのは大正14年1月であった.
 第1期のアンモニア合成により硫安の販売は多大の利益を計上しはじめたので,外国硫安駆逐の曙光が国内に現われ,各事業家もアンモニア合成事業に着目し日本各地に肥料工場の事業化が計画

 
されるようになった.
 延岡肥料工場でも第2期工事終了と同時に第3期工事として第1期,第2期の合計に匹敵する増設を決定.大正14年1月,カザレー社に重ねてアンモニア合成装置一式を発注した・
 圧縮機についても国産機械を採用しようと努力したが,まだ我が機械工業界の技術は未熟でやむを得ずカザレー社に注文することになったのである.機械の入荷とともに,引続き据付工事が始められたのが大正15年1月,試運転を全部完了したのは同年12月である・
 このようにして延岡工場は電解電力20,000KWを必要とし,アンモニア生産は日産40トンとなり,硫安で160トンと当時としては日本最大の肥料工場が延岡に完成したのである.

 3.10 カザレー博士とイタリアの技術者
 アンモニア合成の発明者・カザレー博士の延岡における活躍は,触媒製造や合成塔スタートの緊張した苦斗の記事より察知して頂けたと思う.
 大正12年9月10日来延し,同年11月10日までの2カ月間滞在・自己発明の工業化のため全精魂をかたむけたのである.宿舎は向陽クラブで,出北用水路に面した南側の二室.毎晩おそくまで勉強され電灯がともされていた.
 また4月以来イタリアからきた先発の技術陣四人,即ちカザレー社からの技師長のサンタゴスチーノ氏,技師のドットウ氏,職長のバラレス氏・圧縮機のメーカーのピニョウネ会社の技師フランチスキー氏とも向陽クラブに宿泊.よく会議をもち指導をしたとのことである.
 谷口喬一工場長とはお互い気心も合ってよく相談され,二人は37歳の同年であったと開かされた.
 白石宗城工場次長は34歳で,合成で一緒に勤務した工藤係長以下みな20歳前後の旺盛な若者ばかりで,皆一様にナッパ服を着て油にまみれ,よく働いた.カザレー博士は谷口工場長に『ここの職工は英語が話せるし,化学の知識もあるのでたのもしくアンモニア合成は必ず成功する』と話されたという.現場では通訳の藤崎氏がいつもつきそって通訳したのである.

 
 カザレー博士は背も高く好男子で,模範的な学者ハダの人であった.滞在中,研究や仕事でつかれると散歩に出かけるのを楽しみにし,長浜海岸や大瀬河畔を散策した.このころ大瀬橋の北詰のたもとにあった山内写真館の撮影写真が大変気に入り,50枚も焼増して持ち帰ったほどだった.
 いよいよ帰国される日,野口社長,市川副社長も来延して会食,その労をねぎらい,向陽クラブの玄関前で工場主脳部一同と送別の記念写真が撮られている.はるばる海を越えて自己発明の工業化,創業の思い出と次への発展の夢を描いたことと思う.
 白石工場次長,工藤係長が見送りでカザレー氏を秋の阿蘇山に案内したとき『白石さんに忠告する』と言い,『この火力発電の権利を早くとれ.野口さんに勧めて水力の時代は過ぎて火力発電の時代が来る.権利を早くとれ』と強く言ったとのことである.
 つまり火山発電を予見しており,こうした科学者らしい一面に感心させられたとのことである.石油がなくて因っていると,太陽熱や海流や原子力とともに火山発電を考えられているが,以上はこれを予見した65年前の一コマである.またほかのイタリア人たちも人気者で恒安寮にもよく遊びに来るし,散歩に行をともにすることもあった.
 合成塔の電熱挿入部がショート,大音響とともに火焔に包まれ,みな大奮斗して鎮火につとめ一段落しほっとしたとき,一緒に勤務していたドットウ氏がおらぬと言うのでさがしたら,地下室の鉄板の裏側から出て来て『かような時は焼けた鉄粒が落下してケガをするから注意せよ』と訓辞したこともあった.
 また,イタリア人組は青蛙やイナゴの油いための料理を作って食べていた.全員が思い出を残し帰国したのは大正12年11月19日であった.

 3.11 硫酸・硫安工場の運転開始
 硫安の製造のためアンモニアとともに硫酸工場の建設が併行して着々と進められた.窒素は鏡工場も鉛室式であったが,新塔式装置の成績が各地で良好であったので、納式の納五平氏の経験や意見を聞き,調査研究の結果,谷口工場長は延岡自家製の独立塔式硫酸製造法を採用したのである.焙焼炉は米国製ヘレスホフ15t/日六段式2基.硫酸製造は当時塔式の経験のない人ばかりの口論乙駁は『船頭多くして船進まず』の感じであった.その後納五平氏の来延指導や,谷口工場長が炉の保温の大切なことに着眼してどうにか順調となり,12月から大正13年1月にかけて軌道に乗った.
 生産量は11月に38トン,12月は234トン,翌1月には339トンの硫酸を製造して関係者一同ホットしたのであった.
 アンモニアは大正13年の新春には希望の光を受け,液安の輸送も硫安係に貯蔵されるのに硫酸が出来ぬとは何ごとか…と言う声もあり,鏡工場から硫安製造用の硫酸を輸送してもらうこともあった.硫安の製造については,鏡工場で大正2年以来石灰窒素からつくる硫安を製造していたので,工場建設には自信をもって延岡につくる硫安工場は改良工夫をこらし,新設工場にふさわしいものであった.この新設硫安工場(日産30トン)で初めての硫安は,大正12年10月25日に合成から676リットルの液安の輸送をうけ製造を開始したもので,この日出来た製品こそ我が国最初の合成アンモニアによる硫安であった(硫酸は鏡工場のもの).それで全員は『肥料が出来た』と言うので,

 
倉庫に僅少ながら山盛りされた製品を貴重品にさわる思いで見たものであった.
 硫安という肥料は脱水指示も厳重で窒素分の保証は当時20.6%であった.延岡肥料工場が3期まで完成した時は年産4万5千トンにも達した.倉摩内は白色の雪山のようで荷造りのかけ声も勇ましく,白梅組による貨車積も繁忙を極めたものだった.

 3.12 酸素工場と高圧ガス協会
 肥料工場に必要な生産工場は建設と運転開始編で述べた通りであるが,この外に水電解によって発生する酸素ガスを触媒製造および工場建設の熔接用として用いるための酸素工場が大正12年8月に完成した.
 この工場では,アンモニア合成工場の消火用窒素ガスのボンベ詰めが最初の作業として開始された.工場には50立方メートルの酸素ガスタンク1基,25立方メートル,150気圧酸素圧縮機1台と,50立方メートル10気圧酸素圧縮機を設備して活用したが,需要が高まり大正14年5月に酸素係の誕生となった.
 特記すべきことは当時日本の模範的設計であり,工場首脳技術者と東京帝国大学の大島義清博士,内務省の小野寺季六技師によりいろいろ協議し,日本圧縮ガスおよび液化方ス取締法令施行運営に参考とする点が多かったことである.
 高圧化学勃興の気運に応じ大正11年4月,取締法が公布,翌12年6月から施行され,延岡の酸素工場はモデル工場的役割を果したのである.同法による作業主任者(化学)は,大正13年11月は工藤宏規氏,大正14年6月は北村忠義氏,昭和2年3月は大石武夫氏,昭和3年11月は堀内金域氏(以下略).圧縮機主任者は大正13年11月が坂口徳蔵氏,昭和2年は楠正之氏であった.このため内務省の監督官も度々見学に来られた.
 日本の高圧ガス取締法は大正12年に出来たカザレー法と彦島のクロード法のためにスタートし,高圧瓦斯協会も出来た.終戦後,昭和21年に西部ガス協会の発足では延岡工場長の片桐考一氏が協会長に就任,私が幹事で世話をした.後年,片桐氏は日本高圧瓦斯協会長を2期務めた.

                                   (つづく