日本の「化学王」と呼ばれた野口遵(したがう)翁が宮崎県延岡の地で,水と空気を原料として日本で初めてカザレー法アンモニア合成に成功されたのは大正12年(1923年)であった.
野口翁は昭和19年1月に72歳で生涯を了えられるまで化学工業の発展に偉大なる業績を残しておられ,今年(1987)でアンモニア合成創業64年を迎える.
野口氏は日本窒素肥料延岡硫安工場を完成すると,直ちに熊本県水俣工場を延岡式肥料工場に転換.昭和2年には朝鮮へと進出,赴戦江の20万KWの発電所の建設と併行して輿南にカザレー式アンモニア合成の大工場を建設した.
昭和6年(1931)には60万トンの硫安肥料を生産.外国からの輸入硫安を減らすという方策の先端を切ることになったのは,半世紀前のことだった.
昨年7月(昭和61年),延岡のアンモニア合成の創業で育った技術陣の手で建設された輿南の窒素肥料工場が,韓国化学工業発展の原点にもなっているとのことで,京城大学教授の安乗直先生が延岡の旭化成工場へ調査に来られ,創業当時のことをしのびながら在りし日の野口遵社長をしのび,案内し説明をしたことがあった.
また10月には東北大学の岡部泰二郎教授も来延され,野口翁のアンモニア合成時代の当初のことを色々とお尋ねがあり,残された資料や装置の一部を視察してもらった.
その後,日本の各種化学工業の創業に直接経験された方々から,『近代日本化学工業創業の事,裏話,エピソードさらにはモニュメントとなるべきものを記録して将来の科学する人々の心の糧にもしよう』ということから,化学工業社の今回の企画となった.
その1回目に「アンモニア合成」がとりあげられ,創業当時に日窒延岡肥料工場に入社していたとのことで執筆を仰せつかった次第である.
現在の化学工業の進歩よりすれば,今では過去の歴史的物語りといえるだろうが,60数年前のイタリー人カザレー博士の実験装置を,世界で初めて我が国で工業化することは大変なことであった.
先ずその創業の時代はどういう情勢であったか.次にどのような人たちが事業達成に努力され,そ
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れを進展させる機関車の役目を果したか.さらに3番目に創業の実態とその苦闘の模様はどうであったかに重点を置き,思い出をたどり,残っている写真や記録によりカザレー式アンモニア合成を紹介する.
1.ガザレ一法アンモニア技衝導入と延岡工場設置の経緯
1.1 延岡肥料会社への入社
大正12年3月,延岡の肥料会社に私が富山県の砺波から入社したのは,高岡工芸の応用化学科主任の木村小二郎先生(後年熊本工業学校々長)が以前に日窒鏡工場のセメント係長で,初代延岡工場長谷口喬一さんとは「竹馬の友」であった関係から『延岡に新式の肥料会社をつくるので,卒業生を送れというから行ってくれ』とのことで選ばれて赴任した.
国鉄・日豊線が佐伯までしかきておらず,全通していない時代で.別府港から大阪商船の船で宮崎県北の土々呂港に上陸した.希望に燃えて着いた会社を見ると,広い敷地に第1期の建築が終わったところで,機械もなく室内はがらんどうで付近は草ぼうぼう,周囲の柵も針金で形ばかりのものだった.谷口工場長は不在で,庶務に着任の挨拶をしたあと準備されていた延岡市南町の清岡という女主人の下宿屋に入ったのは3月29日であった.大正12年の忘れられぬ思い出は,赴任の途中に別府から空の先駆者後藤勇吉飛行士(延岡出身)と一緒だったことで,後藤飛行士は2回目の郷土訪問飛行の時であった.後藤飛行士はリンドパーク氏より先に太平洋横断飛行を計画,その訓練中,昭和2年2月29日に殉職された.
5月には皇后陛下が久邇宮良子女王陛下のとき,列車で鹿児島からおみえになり,延岡駅に下車,自動車で宗太郎峠を越えて別府を経て御婚約のため上京された.
9月1日には関東大震災があったが,ラジオもテレビもない時代で東京戒厳令や連合艦隊の集結,さらに死者や行方不明15万人と地震の恐ろしさを知ったのは3日後であった.
肥料会社でも試運転に入るところで,カザレー博士の来日も地震当日.このため横浜に上陸出来ず神戸港から延岡へという一幕もあった.
10月5日はアンモニア合成の創業.12月15日には国鉄・日豊線が全線開通の祝賀が延岡で行われた.
1.2 大正時代の日本の硫安
我が国の硫安は明治29年,東京の肥料商・鈴鹿商店がオーストラリアから硫安を5トン輸入したのがはじまりという.その後需要が次第に増加し,大正2年には10万トンを突破している.これに対し,国内ではガス会社が石炭ガス製造の副産物として2〜3トンを製造販売しているに過なかった.

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こうした時代に野口氏は水力発電所づくりに情熱をそそぎ,熊本県曽木発電所の余力電力を利用し,明治41年に日本窒素肥料株式会社を設立,水俣工場でカーバイドを製造.さらに渡独してフランク,カロー両氏の石灰窒素の特許を買収し,石灰窒素肥料の販売にも手を広げた.加えて大阪稗島で変成硫安を研究し,大正2年から熊本県に鏡工場をっくり自ら製造部長を担当,大正3年1月に我が国ではじめての空中窒素固定法による硫安を誕生させたのである.
純白の美事な結晶の硫安が約1トン出来たときは思わず歓声があがった.野口氏は早速そのサンプルを持って大阪の重役会議に急行したという.
当時,鏡工場の生産能力はカーバイド1万トン,石灰窒素2万5千トン,硫安2万トン,セメント20万樽であった.
ところが欧州大戦で大正3年に国内消費量12万トンにまで達した硫安が戦争のため輸入が激減し市価が急騰をつづけ,戦前1トン当たり130円であったものが大正5年に200円,同6年には400円ともなり製品は羽根が生えて飛ぶように売れた.
このため野口氏の会社は有卦に入り,硫安が1トン約70円のコストで製造されたのでその利益は莫大で,利益が資本金の倍額にもなるなど笑いがとまらぬ位であったという。この時は株主には10割配当,全従業員にも功労株を無償で配分するとともに特別賞与が出て,日窒の職員たちはほとんどが金時計をぶら下げて羽振りのよいものであったという.しかし,欧州大戦の影響は一部の好況もあったが社会的にいろいろ問題や波紋を投げ,大正7年夏には米騒動がおこり,銀行の倒産,物価の暴騰により各地に賃上要求のストライキが広がった.
鏡工場でもこれ等の対策に苦慮したと開いた.欧州大戦の終結後は再び安い硫安の輸入となり,これが対策に早くから野口氏は深く警戒心をいだき,大事業の経営者として『金は大事だが恐れるな,勇敢であれ』と幹部に教えておられたという.
1.3 カザレー法アンモニア合成の導入
野口氏がどうして変成硫安から直接アンモニア合成のカザレー法を採用実施されるようになったかについては,私の上司の延岡工場次長で水電解担当の初代係長を兼務された白石宗城氏から色々教えていたゞいた.この白石さんから終戦後東京での座談会で直接お開きした話と,昭和36年吉岡喜一さん著の「野口遵」を参考に記録する.
第一次世界大戦の終ったころ,野口氏は『日本のアンモニア工業も結局はヨーロッパのハーバーの合成に乗り移らねばならないだろう』と判断し,外遊されたのである.
大正9年を最初に前後3回にわたって渡欧された.1回はイタリヤだった.それは石灰窒素の特
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許権はドイツのものだが,権利会社がローマにあったためであった。そうすると『イタリアで興味ある研究をやっている。カザレーという人でアンモニア合成という。ひとつ見ないか』ということで,野口氏とカザレーの試験場を見に行った.
その時は非常に小さなスケールでやっていたが,日産10キロかそこらだったと思う.
2度目の渡欧は大正10年1月。野口氏は鏡工場の社員,谷口喬一,楠寛之助の両氏を伴い石灰窒素の契約期間満了についての打合せもあり,ローマに立ち寄った.
この時はカザレー氏のアンモニア合成試験は,テルニーの小さな工場でまだ4分の1トン程度の貧弱なプラントで,実用のほども危ぶまれるものであった.
アンモニアの匂がプンプンしており,この時はカザレー氏は不在であったが,その装置を見て説明を開き,野口氏は将来性のあることを確信し,ローマに行きカザレー氏と面接して交渉された.
発明の特許権は1000リラ(邦貨100万円)ならば・・・ということであったが、高額であるので独断で決める訳にもいかず2週間の期限をつけて大阪の本社に電報を打った。
電文は『はたしてうまく行くか否かは研究を要するが,もし当社が買わずに他の人が買えば,当社は100万円で潰れる,この意味で是非買おうじゃないか』という趣旨であった。
こうして野口氏は大正10年4月,10万円の手付金を支払って予備契約をして谷口氏と帰国した.
野口氏は役員会で簡単な青写真をもとに熱心に説明され,カザレー式アンモニアの実施が決定した.この時ある幹部から『青写真1枚によくも10万円も出したものだ』といわれたということもあったとのことである.
大正10年9月,3度目の渡欧には野口氏は榎並直三郎(支配人),谷口喬一,島田鹿三の三氏を同行させ留学中の白石氏が案内を引受けた.
一行はローマに乗り込みカザレー博士と会見,博士も大変喜び手付金も打っていることでもあり交渉はトントン拍子に進み,装置能力の決定並びに機械製作会社の注文などを充分に協議された,カザレー法アンモニア会社代表者ルネ・レプレスター氏およびカザレー氏との間に,アンモニア合成法の特許実施権およびこれに関する一切の機械類の購入の契約書に調印終了されたのは同年12月であった.この時の模様を白石氏は次のように座談会で話された.
石灰窒素のフランクの関係で,野口さんはベルリンではシーメンスとパイエーを往復しておられた.その時に,野口さんは僕に『アンモニア合成をやるから,君も30歳を過ぎ自立の年齢ではないか』と言い,『アンモニア合成のこの新しい仕事に協力して,もう一度会社に帰れ』とのことだったので承知した次第である.
余談だがイタリアに行くとき,フランクやシーメンスの技師たちと一緒だった。ドイツは大戦後で外国に行くにも制限があり,税関ではみんなが僕にガマ口を預けて通った.
テルニーの工場は戦時中に酸素をつくっていた。酸素熔接用に売れるので水電解で酸素をつくり,水素は捨てていた.それをカザレー博士がただでもらってアンモニア合成のテストプラントを設計,水素の中で空気を燃やし,窒素だけを殆して1対3の割り合になるような装置をつくった.
それがアンモニア合成用窒素と水素の混合物を造る工場であった.
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契約が出来て野口氏はパリーに残り,僕はドイツに帰った.この間,フランクと一緒にミラノのフアウザーの工場を見学した.
そこでフアウザーとドイツ語,英語で話をしたが彼はこう言った.『イタリアでは非常なうわさがある.ある日本人が来てカザレープロセスに1000万リラ出して特許を買ったという話があるが,おれのところはもっと安く売るから買わないか』ともちかけられた.
どうしてそういうことをいうかというと,あの延岡にもある水の電解装置は,ファウザーがカザレー会社に水の電解槽を納めた.その電解槽から出る水素で,フアウザーと同じことをやっているからあまり変わらないではないか…ということである.
余った水素で合成を研究していた二人は,ファウザーは機械屋であるし,カザレーは大学の先生で化学屋であることであった.
また同じころ神戸の財閥,鈴木商店もこのカザレーの設備を売ってくれないかと書面による照会をし,技師も派遣して検討した模様である.
あまり試験設備が小さく,アンモニアの知識もなかった当時としては,値段も高く決心がつきかねられた‥・とのことである.
こうした話を聞くと,野口氏の決断と手早い事業の開拓には何人もまねの出来ないところがある.カザレー博士も野口氏の経験や知識,それに1/4トン程度のものを直ちに7.5トンの合成塔へ拡大するという事業化には非常に喜び協力したとのことである.後年,鈴木商店はアンモニア合成にクロード法を選び,日産化学はフアウザー法を選んだのも面白い.
当時のアンモニア合成実施の事業家の方々は大いに苦心されたことと思われる.
1.4 カザレー法アンモニア合成の契約書
日本のアンモニア工業は,各社まちまちの異なる発明特許で創業実施されている.
カザレー式もその全文の契約書の紹介は紙面の都合で割愛するが,カザレーアンモニア会社
(C.A.C),日本窒素肥料会社(N.C.H)との間で交わされた一部を抜き書きする.
<其の1>
(1)アンモニア合成用触媒装置
(2)窒素または窒素・水素混合瓦斯の製造法
(3)「アンモニア」合成法
(4)触媒剤製造法
<其の2>
『N.C.H.K.K』が日本に放て建設する年産NH3 2,500トンの第一期工場建設については,『C.A.C』に対し1921年11月15日迄に375リラを支払うべし.右支払により,現在の装置を詳細に視察し,将来の装置に関する図面を精査することを得た.
其の機械は,左記の如く日本窒素によって注文せられ,同時に其の代金の支払をなすものとす.
日本窒素は,電解器をカザレー社より直接購入する代りに,日本に於て建設すべさ義務を負う.別個の契約に於て示されたる機械は,注文の日より10ケ月以内に「テルニー」又はカザレー社に
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よって指示される場所より出荷されるものとする.
「C.A.C」は,年産2,500トンのNH3製造工場の運転費用につき,窒素瓦斯の製造費を除き,伊太利に於ける時価により左記の通り保証する.
1日の運転費用(金額はイタリアンリラ) 償却金1,500 電力(1キロワット時0.03リラ)3,500 触媒費瓦斯清浄費300 職工50人(20リラ)1,000 修繕費及消耗品,250 経常費,600雑費,350 合計,7,500リラ.
※カザレー社(C.A.C)は左記の通り保証す.
(1)直流6キロワット時を以て水素1M3を製造すること.
(2)水素2.2M3を以てNH31瓩を製造すること.
但し,液体空気装置に於て製造せらるべき窒素の純度は99.5%とする.
(3)圧縮,加熱,冷却等に要するNH31瓩当り電力の消費は,交流2キロワット時を超えざるものとす.
(4)以上総括して(C.A.C)はアンモニア1瓩製造に付(但し窒素を除く)直流13.2キロワット時と交流2キロワット時を超えないことを保証す.
<其の4>
カザレー社は,カザレー式アンモニア合成方法並びに装置に関する日本及び支那に於ける特許並びに将来の特許が同国の法律により,最大期間有効に存続される様に全力をつくす義務を負う.カザレー社は,触媒剤の製造方法は現存する総べての類似特許の方法と相違することを保証す・‥・日本窒素に村し,特許権侵害の申立を行った時は,カザレー社は責任を以て一切の訴訟を弁護する義務を負う.
以上の外,契約書は12条の長文に作成,原本2通,1921年12月12日「ローマに於て代表者より署名捺印されている」.
1.5 延岡に肥料工場建設の経緯
欧州から帰国した野口氏は,この新事業実施のため工場設置の構想を立て,当時工場のあった熊本県鏡町と文政村との中間の11万余坪の空地に建設を決定し,大正11年3月10日起工式の運びとなった.
本社から野口氏ら幹部が鏡工場におもむいた.ところが野口氏の来鏡を知った周辺の住民と被害問題で紛糾し,ついに工場建設を断念させる原因となったのである.
このようにして野口氏は宮崎県延岡を第二候補地と定め,秘密裡に当時日本窒素と関係のあった五ヶ瀬電力株式会社の事務所に同社の取締役山本弥右衛門氏と旧藩主・内藤家の工業所長・笠原鷲太郎氏(ともに恒富村会議員)を訪問相談を交わしたのである.
当時工場敷地を土々呂,門川方面にしようかという目論見もあった(これは谷口初代工場長の日記に恒富村と門川村のくわしい工場設置の予算書が残されている).
山本氏は村会議員・志賀輝雄氏に野口氏や谷口喬一,滝儀三の両氏を愛宕山の展望台に案内,そこで山の麓の3万坪,即ち現在の旭化成薬品工場の場所を敷地として内定した.
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野口氏はこの視察の後に本社へ帰り,直ちに重役会を開き延岡工場を建設することを決定した.
<大正11年3月26日の重役会決議事項>
カザレー式新工場は鏡工場内に設置することを変更し,金180万円の予算を以て宮崎県延岡に之を建設する.
野口氏は大阪から熊本県の鏡工場に行さ新式工場の建設中止を告げ,4月2日に延岡で再度山本氏を訪ね,恒富村当局の誘致並びに土地買収の交渉を開始されたのである.土地買収は五ヶ瀬発電株式会社が責任をもち,常務取締役の大島英吉氏が担当した.
ここで宮崎県の延岡肥料工場設置について大切な地方事情のうち,五ヶ瀬川電力株式会社と県外送電反対運動・延岡と日豊線開通の模様,恒富村の工場誘致の土地買収…の四点を記すことにする.
1.5.1 五ヶ瀬川電力株式会社の創立
大正10年ごろ宮崎県内の総発電力は6,400KWぐらいで微々たるものであった.そこで大正8年の春,宮崎県選出代議士の長峰与市氏が当時の政友会の領袖で勢力のあった日窒の元会長でもある中橋徳五郎さん(旧金沢藩で野口氏と同郷)を訪ね,五ヶ瀬発電の有利なことを説き,宮崎県内に発電所を誘致したいと相談をした.
これに村し中橋氏は『僕の関係していた会社に野口という非常にやり手がいる.彼に会って話をしてはどうか』といって添書を渡した.
そこで長峰氏は早速野口氏に会って結果を調査することになり,大正8年鏡工場の土木課長平野浅吉氏が実地調査をし,非常に有利なることが判明した.
そこで大正9年5月認可の願書と共に,五ヶ瀬川電力株式会社が延岡町新町に創立され,社長に長峰与市氏の兄の伊作氏がなり,取締役に山本弥右衝門(恒富),日高三郎(宮崎),大崎敬方(宮崎),常務に大島英吉(窒素),監査役に萩生伝(窒素)が就任した.
建設本部を日之影町の岩田屋旅館に設け,大人に測量本部を置き,部長は平野浅吉氏であった.
大正11年7月,炎天下に作業を開始,輸送については特別の川船も利用したが重量物はすべて旧県道を利用した.発電機などは牛10頭で原始的なコロ引きという方式で1ケ月もかけ運搬した.またトラックもない時代なので,セメントなども二日をかけて馬車で運んだ.こんな難作業後,大正14年8月8日には運転開始となり,翌日から延岡肥料工場に送電され12,000KWの電力源となった.
こうして大正15年9月,日本窒素はこの発電所を買収した.
1.5.2 県外への送電反対運動と野口遵社長
大正10年の前後に日本の各事業家は宮崎県内の各河川の水利権に目をつけ,県当局に対し一大暗躍を展開していた.
九州送電株式会社は着々この実行に歩を進めた.
大正9年末,宮崎県議会は県外送電375,000KWを議決したのである.これを知った宮崎県民は,電柱と電線だけしか残らぬ発電計画決議には絶対反対,天与の資源の県内企業化こそ県民の幸福を守るものであると憤激,県外送電反対の猛運動を起こした.
大正11年になりこの難問題も県と送電会社側との交渉が重ねられ,一応反対団も諒とし解決の糸
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口を見つけることができた. 1
この運動をいち早く洞察した野口氏は,『五ヶ瀬川発電をやる以上,宮崎県内で電気事業と化学工業の綜合経営を行えば,送電ロスの問題並びに県外送電反対の問題も解決する一端となり,延岡地方こそ将来の新企業地である』と判断した.
大正11年3月に熊本県の鏡工場建設計画を延岡に転換した一因がここにもあったのである.
1.5.3 延岡と国鉄日豊線開通の模様
当時,延岡は陸路の交通の便が悪く,交易の窓口を主として土々呂港と細島港にもとめていた.
このため鉄道の早期開通が要望され,熱烈な運動を行っていた.ようやく待望の的であった日豊線が全通したのは大正12年12月であった.
蒸気汽関車が南延岡に来た時は各地から見物客もあった.この鉄道開通で細島港からイタリアより大型変流機や,アンモニア合成塔が南延岡駅に輸送され,工場内には徹夜作業のコロ引きで搬入された.
1.5.4 恒富村当局の工場誘致と土地買収
工場を誘致するために恒富村当局がどのような動きをしたかを知るため,時の村長・日吉幾治氏宅を訪れ,土地買収等の日誌を抄録させて頂いたので一部を紹介する.
大正11年3月31日(晴天) 日本窒素肥料工場の本村設置の件にて午前8時,山本,井上,甲斐,と日山組(山本氏と日吉氏とで作った運送会社)に会合し,長峰伊作氏を五ヶ瀬川水力電気株式会社に訪問し依頼したり.午後5時より明日会合の通知を発す.
4月1日(晴天) 午後1時より村会議員を招集,工場設置の件を協議す.
4月2日(晴天) 日本窒素肥料株式会社,五ヶ瀬川電力会社工場設置の件.野口遵氏,長峰伊作氏来村にて村内設置依頼のため,吉野屋旅館に井上,甲斐,三宅同伴出張.夕宴を共にして陳情する所があった.
4月3日(曇) 午前8時より字杉本に工場敷地調査のため会社員等出張.午後1時村会を招集協議し,場所決定.
地主集合通知のため笠原鷲太郎氏は土々呂へ.三宅,山本,大橋,岡富町鈴木憲太郎氏,日吉は午後6時より喜寿亭招待会を開く.
4月4日(雨天晴) 午前10時恒富神社に地主会を開さ,工場敷地買上の件を協議す.田1反歩1,500円,畑1反歩850円.
このあと毎日土地買収の模様を記してあるも省略する.
ここで土地買収と工場設置に大変な噂が村内に広ろがった.即ち『今度出来る会社は空気中から窒素を取るので,村内の空気が薄くなるので呼吸が困難になる』
『非常に危険な会社で,爆発したら4里四方はふっ飛んでしまうそうだ』……これには村当局も
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困りはてた.
これを説明するのに野口氏の12年先輩で,東京帝国大学の鉱業科を出て日平銅山や電気所の技師長をした笠原鷲太郎氏が村会議員の中におられ,色々とデマであることを説明し,職員をデマ打ち消しのため各地区の説明役に任命した.
また村会議員を村長と共に熊本県鏡工場に派遣して見学させた.この見学の模様も「村長日記」に興味深く書かれている.
5月14日(晴天) 熊本県八代郡鏡工場視察をなす為,球磨川に沿うて八代に達したる時,午後3時なり,有佐駅に下車したる時,会社員の出迎え案内にて鏡工場に至る工場全部視察.其の構造広大諸機械の設備空気冷却,石灰石,窒素硫酸アンモニア等山をなす
数十万円の価格,家屋その他広大なる事驚くの外なし.
石灰石を運送するに運河あり,運送船沢山なるものあり,カーバイド工場の火煙の中にて業をなすとの恐ろしき状を見る.セメント工場等,大なる事業なり.
職工2,500人なりと.
会社員・谷口喬一は我等を招待歓迎せり.宿す.
5月15日水前寺,熊本城址を巡視,午後1時各員別々に分れ自分は上京す.
其の後村当局の土地買収はすすみ,6月15日に延岡に谷口喬一工場長,島田鹿三建築部長,永里高雄事務課長,滝儀三庶務係長が着任した.
8月2日(晴天) 村会議員を招集,会社土地買収代金は総て会社支出の旨報告.
8月3日(晴天) 会社工場着手につき地鎮祭を祀るに,村地方有志多数を招き,起工式を挙げたり.午後6時,桝屋にて村会議員の慰労会を会社招待せり.
11月10日,午前山本弥右衛門宅.午後2時五ヶ瀬川電力会社,土地買収精算引渡のため,山本と同道精算引渡す.
11月13日,五ヶ瀬川株式会社土地買収終了につき村会議に報告.
1.5.5 工場建設と村長の祝辞
肥料会社敷地は約3万坪.土地確保には地主,小作各位の絶大なる協力があり,しかも五ケ月という短い日時で完了したことは,地元の方々が工場誘致にいかに熱心であったかがうかがえる.
工場建設に着手の第一歩として大正11年8月3日,記念すべき地鎮祭が挙行され,延岡は工業都市へのスタートを開始した.
当日の日吉村長の祝辞は次の通り.
時あたかも大正11年8月3日,日本窒素肥料株式会社は延岡工場の建築に着手し,荘厳なる地鎮祭を営みて,天神地祗を祀り,不肖幾治招かれてその末席をけがすを得たる,光栄に堪えざる所なり.
惟うに,同社帝国肥料界の泰斗にして,従来の年産既に10幾万トンを産し,唯に社運の隆々とし
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て旭日の観あるのみならず,延いて本邦の経済に貢献したるの功労は実に莫大なるものあり.
今回更に一歩進めんとするに当り,地を我が恒富村に卜し,敷地約3万坪.魏然たる一大工場を現出せんとして,玄に地鎮祭を行うに至る.
これ実に,地方民の欣喜雀躍措く能わざる所なりとす.惟うに,地方の繁栄と隆昌とは,一にこれを文明的工業の勃興に待つの外なきは,最近の事実にこれを証して余りあり.
我が延岡の地たる由来,地僻にして,人踈に文明的工業の如きリョウリョウとして見るに足るものなし.僅に租簑なる原料生産を以て,現状維持に汲々たるに過ぎず.大規模なる延岡工場建築の如きは,実に青天の霹靂にして,地方一帯にこれが為に生色を呈したる.誠に其の所以なりとす.
日本窒素肥料会社が,健実なる発展を遂げ,事業の盛大を致すは,これを地の繁栄を来たし隆昌を致す所以にして,会社の利とするところは,直ちに地方の利とするところなり.
不肖,幾治之を恒富村長に受け,ここに村民を代表として,同社の将来を祝福し,その事業の発展を祈り謹みて祝意を表す.
大正11年8月3日
東臼杵郡恒富村長 日吉幾治
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