延岡はこうして会社が出来た

野口翁7回忌を偲ぶ其雪園の座談会
昭和26年4月5日


 

出席者紹介

伊東 文吉  延岡北小路出身、名古屋工大卒、大正11年肥料会社入社、延岡工場
       の建築設計、興南工場の建築部長、本宮工場次長

岩橋  勇  熊本県水俣工場長、鏡工場長、野口翁の石灰窒素時代よりの同志延岡
       肥料工場建設に協力

小田彦太郎  延岡北町出身、延岡町長、商工会議所会頭、衆議院議員

甲斐伊佐堆  東海村生まれ、内藤家亮天社出身、東海村長、火薬工場誘致に協力

仲田又次郎  延岡南町出身、県外送電反対、町議、県議、初代延岡市長(名誉市民)

山田  豊  京大卒、大正13年肥料会社入社、研究課長、ペンベルグ技術習得で
       獨逸派遣、朝窒人造石油専務、野口研究所

小原 應義  金沢市出身、一高卒、三井入社、野口翁の要望で大正15年レーヨン
       工場設置の時機に入社、庶務係長

佐藤和七郎  大分県出身、大正時代延岡新聞社を南町に創設し社長

北村 忠義  九大卒、大正12年肥料会社入社、アンモニア合成係長、ベンベルグ
       部長、薬品部長、興南工場長、旭ダウ初代社長

宮本 正治  東大火薬科卒、昭和5年日本窒素入社、東海火薬工場初代の工場長、
       延岡市議会議員、朝窒火薬社長、日窒化学延岡工場長(専務取締役)

平山 政保  長崎市出身、鏡工場より延岡肥料工場転勤、事務課長、興南工場勤労
       部長

植木善三郎  大阪工大卒、大正12年水俣工場入社、水俣工場をカザレ一式肥料工
       場に転換の折、延岡肥料工場に派遣の幹部、興南工場製造部長、旭化
       成専務取締役、延岡工場長、新日本化学社長

司会者紹介

金田栄太郎  日本窒素常務取締役、日窒の代表取締役

白石 宗城  高知県出身、東大卒、獨逸留学中、野口翁の要望で大正10年再入社、
       延岡肥料工場次長、研究部長、興南工場長、日窒社長

飯島 貞堆  金沢市出身、掘朋近常務取締役の要望で大阪商船より、昭和5年ベン
       ベルグ設立時入社、事務部長、日窒化学専務、延岡商工会議所副会頭
       延岡工場長、旭化成常任監査役

 

延岡・其雪園

 其雪園は延岡市北小路谷仲吉氏邸内にある東側の庭園の名称である。明治43年大
正天皇が皇太子殿下の時、延岡にお迎えすることが出来、先代谷仲吉翁は出身地滋賀
県より庭石等一切をとりよせ造園されたと聞く。
 又、昭和24年昭和天皇戦後各県都市を行幸された時、延岡市で一泊され谷家では
宿泊室を造作されました。太平洋戦争後、谷仲吉氏夫人清子さまがきせつ園旅館を開
業されたので、昭和26年由緒ある同旅館で野口翁を偲ぶ座談会が開催された。

 

延岡・野口 遵翁を偲ぶ座談会

 「野口 遵翁・追懐録」は、最初に「野口 遵翁・小伝」があり、宇垣一成元陸軍大将や、阿部信行総理大臣らのほか、財界では三井・三菱、住友関係、電業関係、学者、それに野口 遵翁と交流めあった欧米の人たちも、それぞれ追懐記を書いている。さらに野口 遵翁と一緒に事業を推進した日本窒素の幹部・社員・家族など、合わせると百三十人が記述している。また水俣・延岡・興南・満州など十カ所での座談会記事も収めてある。その中から、野口 遵翁の七回忌のとき、延岡で行われた座談会を、次に掲載することにする。
【出席者】(敬称略)
▽元日窒本宮工場次長 伊東文吉
▽元日窒寶右尼崎工場長 岩橋 勇
▽延岡市有志 小田彦太郎
▽元東海村長 甲斐伊佐雄
▽延岡市長 仲田又次郎
▽元朝鮮人造石油専務 山田 豊
▽元日窒化学工業庶務係長 小原 應義
▽元延岡新聞記者 佐藤和七郎
▽元日本窒素取締役 北村忠義
▽元朝鮮窒素火薬社長 宮本正治
▽元日本窒素勤労部長 平山政保
▽司合 金田柴太郎  白石宗城  飯島貞雄
【金田】仲田又次郎市長さんから、おはじめ願いましょうか。
【仲田】忘れもしない大正十年、ふとした事から私は二十八歳で町会議員となりました。時の原内閣の逓相・野田卯太郎さんの主張で、宮崎県の水力電気を結集して、北九州へ送る。即ち、県外送電計画が議せらると、全県的に反対の世論が巻き起こり、私等も県外送電反対運動に参加し、日向の山野を走りまわり、猛烈に運動したもんです。野党である憲政会も動き、政府の強硬な手段が一時停頓しましたが、慧眼なる野口さんはこの機を逸せず自ら乗り込んで実地

 
調査をし、直ちに五ヶ瀬川の水利権を獲得されました。野口さんがカザレー式の特許権を得られた時で、県内で肥料の製造工業を起こす……と言うのですから、宮崎県民の大歓迎を受けたわけです。同時に我々は、さすがに野口さんは偉いものだ……と感心したものでした。これが野口さんと、私との付き合いの初めでございます。
【金田】当時の協力者は、どういう人でしたか。
【仲田】長峰与一・柿原政一郎(当時高鍋町長)・山本彌右衛門さんたちです。
【平山】工場敷地問題について、延岡銀行の頭取をしておられた三宅さんの話をお伝えします。野口さんに自動車に乗せてもらって、愛宕山の下まで行ったが、その当時、一行は自動車を珍しがったそうです。山の上で「工場用地に、このくらい欲しい」と、ステッキで指され「村で責任を以て買収してくれ、水が良いから、ここでやりたいのだが、皆さんが引き受けできんなら、「岡富の方へ行く」とのことであった。恒富の有志は、互いに顔を見合わせるばかりで、即答できなかったそうです。野口さんは「ここで即答できんなら、旅館に行って話そう」と、吉野屋旅館で、晩飯を共にし、いろいろ協議して、村で引き受けることに決したとのことです。
【伊東】そのころ、私の義兄は村会議員でしたが、恒富と岡富は非常に競争したといいます。山本さんたち恒富の村会議員が、秘密に熊本県・鏡の工場を視察してから、安心して用地買収にかかったそうです。
【佐藤】新聞記者として、初めて野口さんに会って、『これは満身“知恵の人”だ』という印象を受けました。それで、うまく行けば良いが、油断するとひどい目に会うぞ……と、心配もしたが、非常にうまく行って今日の盛大を見ました。三町村合併の時も、大いにやろうと思いましたが、新聞記者が行って感情をそこない、折角成り立ちそうになっているのを、打ちこわしては……と、心配して、野口さんの方へは積極的には出て行かんようにしました。
【岩橋】工場の建地条件に関しては、谷口喬一さんが最初に視察し、その次に私が視察しました。
 
【佐藤】当時、恒富村議会は、相当有力な者が揃っておりましたから、世間に分からんうちに工場を誘致してしまったのです。新聞社も、後から知ったようなことです。主として、山本彌右衛門氏が最も中心となって働かれました。私は、知事の初巡視のとき、一緒にまいりまして、谷口さんから紹介されて、野口さんにお目にかかったのが初めですが、立派な骨格の人かと想像していたら、谷口さんの肩ぐらいしかなく、作業着で説明されたのをいっまでも忘れません。
【金田】工場が運転をはじめたのは、いつですか。
【白石】試運転をやったのが、大正十二年の七月だった。北村君と私もいた。日本としては、最初の高圧試験だから、みんな緊張して運転した。間もなくアンモニアのにおいがした……というので、祝杯を上げて喜んだ。カザレー博士がイタリアからアメリカを経て、横浜に着いたのが九月の一日、即ち関東大震災の日で、横浜は“火の海”で上陸どころでなく、神戸へ回り、九月の十日に延岡へ来て運転した。合成塔の温度を上げ過ぎてるから、生産が少ないのだ…と言うので、その言葉に従って温度を下げたら、四、五日でうまくいくようになり、本当の祝杯を上げました。
【金田】人絹工場の設置から、三町村合併の話に移りましょう。
【小田】延岡は景色は良し、水は清し、長生きには好適の地と思いましたが、こんな工業都市になるとは夢想だにしませんでした。しかし、レーヨン工場問題では全く困りました。
【仲田】そうですよ。東臼杵郡の最後の郡長・柴山さんが、非常に斡旋し村会議員総出で岡富の四十町歩の美田を買収したが、工場は容易にできず、耕作もできず、岡富はすっかり因ってしまいました。
【飯島】大正十五年に野口さんが、喜多又蔵さんと組んで、延岡にレーヨン工場を作ることになり、岡富の土地を買収したのです。昭和の初めになって景気が悪くなり、また、いろいろないきさつもあって、工場建設が延期された。そのうちに昭和四年ですか。日本窒素でベンベルグをやることになったので、敷地のある岡富が当然利用さるべきだが、アンモニア輸送並びに排水等の関係で
 
岡富では具合が悪く、恒富にと、言うことになったのです。
【小原】私は五十一歳まで三井鉱山におりました。あるとき、第一高等学校時代からの友達である福岡の工藤という人の宅で、野口さんにお目にかかったのが縁と言いますか、その工藤君のお世話で、大正十五年の六月、こちらで働かして頂くことになりました。五十嵐清治さんも同時に転任して来られました。中川原に仮事務所がありましたが、工場の建設は中止されており、地元ではやかましく言われ『工場を建てんなら耕作させろ』と迫られ、一年間耕作させることにしました。事務所で私一人が野口方という様子で、まるで敵視されて、皆が相手にしてくれません。そのうちに、野口さんたちは株を売ってしまって止めることになった……という風聞も、あったりしました。昭和四年の四月には、野口さんが肩代わりして、会社は野口さんの手でやることになった……というので、私と事務員一人残して、外の人は辞任することになりました。
【小原】困ったことには、やめた人たちが書類や図面をみんな焼きすててしまったことです。昭和四年の十二月に野口さんが見えて、岡富・恒富の有志を集め『排水と原料の輸送の関係で、岡富に工場を建てることは困る』と説明されたので、岡富の有志はびっくり仰天し、私は前から“工場は必ずできる”となだめていたので『小原は嘘を言った。竹槍で突くぞ』といわれました。恒富の方では、一生懸命で『ベンベルグ用の土地は無償で提供する』とまで言い出した。野口さんは、初めは『無償ではもらわん。将来、問題を生ずるから、必ず買わなくてはいけない』と言われていたが、先方が言うなら、無償でもらうということになりました。山本彌右衛門さんは、びっくりされたそうだが、笠原さんから言い出したことで、引っ込みがつかず、無償提供となったが、買収費三十万円の金がどうしてもできず、野口さんに融資方を頼みに言ったら『よろしい、お金をお貸ししましょう、利子ももらいます。併し来年の三月までに、三町村の合併ができたら、お祝いに、みんなさしあげます』と約束されました。この金には、山本さんに保証させることになったが、山本さんはなかなか判を押そうとしないのを、西森熊吉さんが『押さんか、押さんか』と言うて、すすめた
 
のだそうです。
【小田】レーヨン工場の敷地を買収したままで、工場の建設は目途がつかないのに、ベンベルグの工場が恒富にできるという評判、恒富は既に肥料工場ができて村の財政が隆々たるのに、岡富は村の財政窮乏している。この上、工場を恒富に横取りされては大変と騒いでいた。私はそのとき延岡町長をしておりましたが、岡富の窮状をみておられんと、東海村長の甲斐さんと救援方を買って出ることになりました。山本さんは、私の応援を引き止めましたが、岡富の窮状を見るに忍びず、甲斐さんや岡富の有志八人と大晦日に、野口さんに会いに別府へ行きました。面会したのが昭和五年の正月元旦です。暮れも迫って延岡・恒富・岡富三町村の有志連が一緒に会社で、野口さんから恒富に工場設置の説明は受けたのですが、岡富はそれでもなお岡富へ設置の交渉へ出掛けたのです。野口さんに別荘で会い、真剣に話し合いましたが、その日は“物別れ”となって、岡富の一同は去り、私達二人が後に残ったときに、野口さんが決心して「三町村合併問題」を提出されたのです。『合併すれば、工場が恒富にできても、岡富へできても、利害は皆同じだ』と説かれました。これが私の交渉の初めであり、合併の礎石となりました。
【仲田】小田さんは町長で、私は町会議員でした。恒富には山本あり、岡富には吉高あり、私もついて別府へいこうと言いましたが『調停役は、一人で良い』と言って、小田さんだけ行きました。
【甲斐】元旦の会合では、岡富の議員たちは、なかなか意気が盛んでした。村民大会を開くことだけは、小田さん等の奔走で中止となりましたが、川澄村長はこの問題で心痛して、病気になったほどです。野口さんに面会して、岡富側は強く交渉。質問となり嘆願となったが、野口さんから良い返事は得られず、岡富の人たちには、一応宿に引き揚げ、待機してもらって、小田さんと二人だけが残った。そのときに「三町村合併問題」を提起されました。そのときの打ち明け話に、今まで秘密になっているが、恒富側には村長・議員個人に対して三十万円貸してあり、合併すれば之は帳消しにすることに約束してあるから、
 
私達に合併に骨折れとのことです。そこで、岡富の有志に合併をと、私達からすすめ『合併さえできれば、恒富に工場ができてもよいのだから』と、説いたが、岡富側としては『とても恒富が承諾しまい』と言う。『それなら、恒富側のことは私共に任せろ』と言って、恒富に交渉を始める、私は先ず恒富の門馬村長に当たりました。例の三十万円のことを知っているので、色々説いて村会を聞かせた結果、まとまるという自身がついたので、今度は岡富村会を説きつけ、延岡・恒富・岡富も同日同刻に町村会を開いて、合併を決議させました。岡富の方では、恒富が反対したら……と心配しておりましたが、恒富が真っ先に決議してしまいました。これで敷地問題も解決となりました。
【小原】先程申しました十二月に野口さんが、岡富の有志に『ベンベルグの工場には、岡富は駄目だ』と言い渡された晩に、クラブで夕食を頂いた際に『三町村合併させることより外に解決の方法はありませんよ』と、私が野口さんに言ったら、『旧藩公の内藤さんがやっても知事がやってもいかんじゃないか』と言われたから『いや、あなたなら、きっとできますよ』と言うと『うん』と言われた。そして翌朝、恒富の有志を集めて、敷地無償提供を主張され、三十万円の貸金となり、合併の実現となったものです。
【佐藤】県の地方課長が釆て『どうかして合併したい。佐藤君、協力してくれ』とのことで、新聞の方で世論を喚起して機運を作ろうとしたが、小原さんが三十万円の秘密を洩らしてくれて『今度は、話がまとまりますよ』と言われた。全く野口さんのおかげで、この合併ができたので、後に仲田市長が『内藤さんを父とし、野口さんを母として、延岡市ができたのだ』と、明確に言葉にあらわしました。
【平山】無償提供では恒富も随分もめて、日吉さんと笠原さんと大いにやり合ったそうです。
【仲田】劇的の合併会議をしたのが、三月三十一日です。
【金田】今度は、火薬工場に進みましょう。
【甲斐】火薬工場が恒富の片田にできるが、土地買収に悩んでいるという……
 
というニュースを聞いたから、これは東海に誘致しようと思いました。実は今の敷地は、小田清兵衛という人の土地で、潮が入ってくるので作物ができない。いつか『なんとかならんか』と、小田さんから言われたことを思いだし、ここぞと思ったのです。そこで、小田清兵衛さんの支配人・小田彦太郎さんに『私にあの土地を売ってくれないか』と申し込み、値段まで約束して大阪の野口さんへ地図を添えて手紙を出したところ、四日目に電報で『見に行く』という返事がきた。会社へ行って五十嵐さんにいうと『自分のところへも電報は来ているが、何の用件かわからん』とのことです。恒富側に知れると大変だから……と秘密にしてもらい前もって小原さんと古賀さんに一度現場を見てもらおうと思い、レーヨン事務所へ行き、小原さんに、『あんたの奥さんにいい人がいる。これから見に行きましょう』と、事務所の人に聞こえるように話して連れ出し、カムフラージュするために、遊船に芸者さんも乗せて祝子川を下ったものです。野口さんが見えたとき、ポッポ船で私と助役が案内し、四、五日うちに返事を頂くことになりました。別れるときに『明日宮崎へ行く』と申し上げると、『自分も宮崎へ行くから、同じ汽車に乗ろう』と言われた。翌朝、汽車に乗ったが野口さんは見えない。宮崎へ着くと助役から電報がきていたので、すぐ次の列車で延岡へ帰ると、迎えの自動車が来ていた。そのままクラブに行くと、野口さんから『東海に決めた』と言う返事があった。機敏な人だ……と言うことは前から聞いていたが、なるほどと驚きました。直ぐ買収にかかってくれ…とのことで、値段の話し合いになり、畑は小田さんと約束の倍にして申し上げたら『やすい』と言われ、山林は『高い』と言われたがとに角、大体の話し合いをつけ、小田さんに言って事情を打ち明けた。値段が約束の倍なので、大変喜んでもらった。そこで、早速、野口さんに会って、地主と交渉がすんだことを申しあげたら、今度は野口さんが驚かれた。船便は良いが、陸運をどうするか……という問題になって『私が引き受けましょう。その代わり、川島橋を架ける費用を援助してください』と頼みました。
【甲斐】この橋は鉄筋コンクリートでやることに、県も賛成してくれたが、村
 
会では費用が大きいので、問題になっていた。橋を架け、道を広げることが、私の約束であり、そうしなければ、工場は恒富に移るかもしれんと思って、熱心に運動しました。県で「三分の二」の助成をすると言うから、「三分の一」を出してくださいと別府へ行き、野口さんに頼んで承諾を得ました。工事にかかった所、一番向こうの地盤が悪くて、ピーヤを打ち込むといくらでも入ってしまう。県の監督も困ってしまった。宮本さんと一緒に正月別府へ行き、また援助の増金をお願いしたら、私の言い方がよくなかったためか、初めは難色があったが、後には快く出してもらうことになりました。
【宮本』山本彌右衛門さんが、相当、野口さんと話し合いをしていて、沖田川の上流片田に作る予定だったのです。私も見に行きましたが、銃砲火薬取締法上具合が悪いので、野口さんにご注意しました。東海の方は土地が低いので、気がかりだが、地主が一人か二人だというので、それが非常に野口さんの気に入ったのです。
【甲斐】野口さん達を東海へ案内した帰りに、向こうから山本さん達の乗った船がこっちへ来よる。見られたら、たいへんだと思って、私達の船に幕を下ろしたが、誰かに見られたらしく、野口さんが来られたことが知れたんですが、翌日は土地の買収も、約束ができてしまったので、恒富では相当の騒ぎとなりましたが、どうすることもできなかった。
【白石】東海村長は、相当なもんだ……と評判でした。
【金田】延岡市も生まれ、工場も大きくなってからの、面白い話はありませんか。
【甲斐】三町村合併を、野口さんは大変喜ばれたたが、東海・伊形の合併も喜ばれた。これは、仲田市長の功績です。
【仲田】市の人口がどんどん増えるので、教育施設を考えなければならぬことになり、大阪へ行き、野口さんに交渉したら、教育施設費として、大阪本社から十五万円いただいた。市議会も感激して「感謝文」を決議し、正月のお祝いに大きな猪を一頭添え「感謝文」を携え別府に行き野口さんにお目にかかり、
 
差しあげました。フグ料理のご馳走になりました。そのとき、私の年を聞かれ『僕より五っ六っ若いだろう』と言われた。私の頭は前から禿げていたからです。実は野口さんが六十三で、私が四十三で、二十も違うのです。
【仲田】そのとき『これは秘密だが、来年は興南工場をやる。おやじは勤王家だったが、僕も何とかして、興南へ天皇陛下をお迎えしたい。今後は大いにやるぞ』と話され、私は、目頭があつくなりました。
【甲斐】私の方が延岡市に合併してから、私も市会議員になりましたが、仲田さんが『市長をやめる』と言うので、野口さんをということになりました。興南邑長になられたから、受けられんこともあるまいということであった。内務大臣の安達謙蔵さんが県庁に見えたとき、そんな話をしたら『野口さんは、日本の野口でなく世界の野口だ。体は小さいが、やる仕事は大きいぞ』といわれました。
【金田】皆さん、いろいろ、いいお話を伺って、ありがとうございました。
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