余   禄
記念座談会
 
 

記 念 座 談 会
東京における座談会
一延岡工場建設の思い出を語る一

昭和28年4月25日
於東京  扇家


 
出席者  白 石 宗 城  大 島 英 吉
     永 里 高 雄  滝   儀 三 
     倉 員 隆 而  北 村 忠 義
     椎 谷   宏  坂 口 徳 蔵

司会者  片 桐 考 一  (旭 化 成)
     市 山 幸 作  (旭 化 成)

片桐孝一氏 略歴 新潟県出身・東京工大(蔵前)卒・大正12年肥料工場
         入社・アンモニア合成係長・薬品部長・旭化成副社長
旭ダウ社長・昭和51年逝去   

 
  ます。
大島 わたしが延岡に草分けとしていつた関係上お話し申し上げますが,すいぶん
  と古い話で相当記憶に間違いもあるかと思いますが,幸い白石さ人はじめ皆さ
  んがおられせすので,間違つたところは御訂正願いたいと思います。
   当時,宮崎県選出の代議士に長峰与一という人がおられました。この人が当
  時実業界から退いて政治界に入り政友会の領袖で非常に勢力のあつた中橋さん
  のところへ「県内に工場を誘致したい。御助力願えないか」という相談を持ち
  かけたということを聞いております。中橋さんはそのとき言下に「これは僕に
  も考えがある。実はもと僕の関係した会社に日本窒素というのがあつてそこに
  野口という非常なやり手がおる。彼に会つて話してはどうか」といつて添書を
  くれた。そして野口さんを訪ねた。それが大正8年の春じやないかと思う。
   わたしが延岡にいつたのは9年ですが,その前に出願書をかいた。県庁でいよ
  いよ受け付けることになつて保証金を納めよということで,とてつもない大き
  な金額,それも現金でなくてもよい,公債でよいということで何万円か忘れた
  が,多額の公債をもつていつた記憶がある。当時の新聞にも載つたが,県でも
  そんな大きな公債を扱つたのははじめてで,県の投入が取扱にまごついたとい
  うことであつた。
滝  その金額はいくらぐらいですか。
大島 3万か5万か‥‥いまからいえば微々たるものですが,いまなら1,000万以
  上にもなるでしようか。
片飼 次に五ヶ瀬電力の社長はじめ重役はどういう人でしたか。
大島 そういうことで野口さ人も調べようということで当時窒素の土木部長の平野
  浅吉氏をやつて実地をみさせた。非常に有利だということですぐ願書を出した。
  競願があつたのであわてて公債3万円かを納めた。それですぐ会社をつくろ
  うといつて願書にも会社名をかかねばならない。日本窒素のなまえを使わず,
 
  地方の別個の会社にして金は全額会社で負担する。社名は地方に関係をもたせ
  るようにしてはどうかということであつた。
   社長は長峰与一代議士があたるべきを遠慮して兄さんの長峰伊作という人が
  なつた。そして長峯系ともいうべき宮崎市の有力者を集めた。
   大崎敬方という日向銀行の頭取,日高三郎,地元の長峰与一の中学時代の同
  窓で非常な親友の間柄の山本彌右工門,この4名とわたくしが入つて長峰伊作
  を社長に,わたくしが専務という名儀であつた。会社ができたからきみ向うにい
  つていろいろとやれということであつて,出て行つたのが大正9年の5,6月か
  と思うが,当時鉄道は宮崎の先の広瀬までと片一方は日豊線佐伯まで,宮崎と
  延岡は歩くにも馬車でもそれから日に1回あつた自動車でも非常に道が悪い。
   自動車たるやボロ自動車であまり腹のいいほうじやないぽくなんかいつペん
  いくと腹が痛くなる,バウンドがひどい,大変なもんだつた。そして1,2年し
  てから宮崎県の電力が非常に世間の問題になつて北九州の九州電力系の連中が
  策動して政友会の野田卯太郎を懐柔して宮崎県の仝部を出願した。こちらの出
  願もどうなるかわからないという不安に陥つたこともあつたが,長峰伊作,与
  一という連中が県外送電反対の猛運動を起してこれが功を奏したこともあつ
  た。そこで本工事にかかつたのはいつごろでしたかしら。
片桐 大正11年の6月じやないですか。
倉員 鉄管が2本か3本で半年遅れましたよ。
大島 最初の出願では詳細は野口さんも決定してはいなかつたのではないか。おそ
  らく鏡のカーバイト工場を造るというのが……
白石 いや,どうしてカザレー法をやるようになつたか話しますと,第1次のヨ
  ーロッパ大戦が終つたころ野口さ人は広島にいました。そのころから日本のア
  ンモニア工業も,けつきよくはヨーロッパのハーバーの合成法に乗移らねばな
  らんということを広島時代いつておられましね。そして自分でヨーロッパを見
  て来たいという考えをもつておられたけれども,病気したりして延び延びにな
  つていたが,そのうち決心してヨーロッパに行つた。最初は大正9年か10年
 
  ですが前後3回行かれた。最初,もとの石灰窒素法の特許権はドイツのものです
  が,権利会社がローマにあつてそこへ行つた。そうするとイタブアで面白いこ
  とをやつておる。カザレーというのがおつてアンモニア合成をやつている。ひ
  とつみないかということでカザレーの試験場をみに行つたときは,非常に小さ
  なスケールでやつていた。日産10瓩かそこらかと思う。それを拡充して100
  瓩だつたか。            、
片桐 なにか4分の1瓲とききましたが。
白石 そう,4分の1瓲の工場をつくるとき野口さんがまた見に行つた。そこで特
  許をもらうといつた。
片桐 大正10年の春と思いますね。実は私が10年に学校を卒業するとき従兄弟
  の役人がイタブアに行つて,そのとき大使舘で野口さんに会つたそうですよ。
白石 3度目だつたと思うんだがヨーロッパに来た野口さんは,石灰窒素法のフラ
  ンクの関係で,ベルリンではシーメンスとバイエーとを往復しておられた。そ
  の時僕に,アンモニア合成をやるからもう一度会社に帰れと言われたので承知
  した。その頃カザレー法をフランクやシーメンスの技師達がほめていたので野
  口さんといつしよにテルニーの工場にカザレー法を見に行つた。4分の1瓲の
  小さい実験装置だつたが,特許権をいくらなら売るかと聞くと1,000万リラ即
  ち100万円ならと言うので,よし買おうと仮契約をした。
   余談だがイタリアに行く時,フランクやシーメンスの技師達といつしよだつ
  た。ちようどドイツは大戦後で今の日本のように外国に行くにもいろいろ制限
  あつて,金をじゆうぶん持つて行けないので,税関をパスする時など,僕に皆
  がま口を預けておまえ持つていつてくれということで税関を通つた(苦笑)…
   テルエーの工場というのは戦時中に酸素をつくつていた。酸素は熔接用に売
  れるので水の電気分解で酸素をつくり,水素は捨てていた。それをカザレーがた
  だでもらつてアンモニア合成のテストプラントを設計し,水素のなかで空気を
  燃やし,そして窒素だけを残して1対3の割合になるような,そういう装置をし
  て,それによつて,アンモニア合成用窒素と水素の混合物を造る工場であつた。
 
   そのときに,アンモニア合成をやるという決意をしたようです。そこで野口
  さんはパリーに残り,ぼくはドイツに帰つたんです。この間フランクといつし
  ょにフランクとフアウザーと話合があるので,ミラノのフアウザーの工場を見
  たんですがフランクはドイツに帰る,僕はスイスに行つてスケートをしようと
  恩つて,彼と別れたが,汽車の関係で12時間ほど余裕ができね。そこでフア
  ウザーが,「おれのところで晩めしを食え」ということになつて,そこでフア
  ウザーといろいろドイツ語,英語で話したんですが,そのとき彼がこう言つた。
  「イタリアでは非常なうわさがあるが,ある日本人が来てカザレープロセスに
  100万円出した。1,000万リラ出して特許を買つたという話があるが,おれの
  ところはもつと安く売るがおまえ買わないか」どうしてそういうことをいうか
  というと,あの延岡にもある電解の装置は,フアウザーがカザレー会社に水の
  電解槽を納めた。その電解槽から出る水素,即ち余つた水素でフアウザーと同
  じことをやつた。
   水電解で酸素をとつて駿素の需要にあて,余つた水素で合成を研究していた
  ファウザーは機械屋である。カザレーは大学の先生で化学屋である。
   フランクは,これは面白いカザレーと比較してこれのほうがうまくいくんじ
  やないかと,言うことでしたが,大正10年の秋に野口さんはいよいよ本格的
  にカザレープロセスと契約しね。そこで五ヶ瀬川で出願した水利権があつたの
  で,五ヶ瀬電力を使つて延岡でやるということになつた。
片桐 変流のコンバーターなどについて白石さん……運搬中にひつくり返つたりし
  て大さわぎしたが。
白石 電解法でやるには直流がいる。当時ドイツでどういう直流器を買おうかとい
  うことになり,水銀整流器が少し芽を出していたが,ドイツではまだロータリ
  ーコンバーターがよいというので大体計画ができた。
大鳥 延岡の敷地決定ということは,私の記憶によると,当時発電所が五ヶ瀬だか
  ら延岡でやるか,土々呂,伊福形でするか,野口さんのほんとうの肛は延岡ら
  しかつた。長峰,日高が非常に有力者で電化工場を誘致するという。そのうち
 
  山本さんが非常に広大な土地を恒富に持つており率先してやつたので,それに
  つれて恒富の連中が犠牲的に大分軟化してあそこに決つた。土々呂にもつてい
  くと用水問題がある。島田さんが来たのが大正10年ですが,そのころにほん
  とうに決つたと思います。
片桐 大正11年の8月に地鎮祭でした。
永里 鏡工場をやめることに決つてからですか。
白石 いや,延岡ができてから鏡はやめた。
大島 土地が決りその後にカザレー法が手に入つたから,それじや延岡でやろうと
  いうことでしたか。
白石 鏡をやめね理由とは関係はないわけです。延岡はとにかくさいさきがよかつ
  た。
板口 鏡ではまだ拡張工事をやろうということだつたですよ。
白石 石灰窒素をやるつもらでイタリーにいつて,はじめてくい付かれたんですよ
  僕はドイツから帰つて会社に勤め大正11年の8月鏡にいつた。それから延岡
  に家ができてから越していつたが,確か花の咲く3月の時分だつたかなあ。
片桐 永里さんがいつたときは下宿でしたか。
永里 大島さんのやつておられた土地の買収を引継にいつたんですが,われわれが
  行つた時は,下宿もなにもない南延岡の駅前にあつた染谷三冶という請負の人
  の家(族館)に滝君と2人で寝泊らした。そうして工場買収に大島さ人の手を
  つけられたのを引き継いでやつたわけです。
大島 増屋前に五ヶ瀬電力の事移所があつね。そして菊池族館とか,片寄医院とか
永里 菊池族館で喧嘩が始まつて(笑声)
滝  最初に延岡の土地を踏んで菊池族館に泊つた。晩飯を食つて,それから紺屋
  町という処にいつた。(笑声)
  「それじやこれから案内しましよう」と,おやじが先頭にたつて紺屋町に行つ
  て何とかいう処の家に入ろうとしたら菊池のおやじが頭を斬られた。大変なこ
  とです。
 
   しかしわれわれは延岡に乗り込んだ最初の晩に殺傷沙汰が起きたというのは
  延岡工場に活気がある,将来があるというので大いに飲んだ。菊池族舘のおや
  じは良い人ですが,どうしたのか無頼漢がなにか人違いしてやつたので,警察
  で調べたら,斬つた男は大変なあやまりかたでした。
大島 僕は菊池が定宿になつて菊池のおやじと懇意になつてひいきにしていた関
  係で家がなかつたから,あそこに下宿した。引続き菊池が会社の定宿になつ
  た
   鬼城舘というのもあつたが。
永里 どういう関係か知りませんが,鬼城館は野口さんの定宿になつていましねね
大島 中橋さんが来るというので,宿をどこに決めるかということになり,菊池
  にしようか,吉野屋にしようかというので,吉野屋が堂々としていろので決め
  て,見晴しのよい三階に通した。
   そしたら中橋さんが見て,「いつたい君,はしご段がどこにあるか」とかい
  ろいろときくのです。「下にしてくれ 地震があつたとき,どこから逃げるか
  火事のときにも不安だ」というんです。部屋はきたなくてもいい下にせよとい
  うんです。
   偉い人になると,それほど生命を尊ぶのかと感心しましたねえ。
滝  谷口さんの思い出ですが地鏡祭の招待の時,谷口さんが,「滝君,今日は延
  岡時間じやない。1時と決つているからキチンとやろう」というんです。
  「だけど谷口さん お顔が揃わないと地鎮祭の式にならんじやないですか」とい
  つたら,なろうとなるまいととにかくやるというんです。窒素としてこういう
  ところに来て,一番最初に窒素はこれでいくということを最初に地元の者に痛
  感させろということを事業の最初にやられた。谷口さんの豪放さに感激させら
  れました。
片桐 建設当時は坂口さんが一番古いと思いますが,滝さんのような秘話感激とい
  うようなものを……
坂口 僕は大正11年11月ですがいろいろと鍛われた思い出はあるにはありますが
 
永里 当時島田さ人はいかにも鍛えることの上手な人であつた。たとえば一番はじ
  めあそこに工場を造るのに杭を打たねばならない。木を集めねばならない。そ
  うすると寸法が1寸切れてもいけない。機嫌の良い時はいいが,そうでないと
  寸分違つてもいけない。鉄板を買うにも1分違つてもいけない。非常にぼくら
  は心配したが,材料が足らないと,きみの責任だというぐあいだつた。しかし
  非常に面白い人で,あの人がおつたからこそ工場ができたと思う。非常に元気
  な人だつた。
大島 島田さんには鏡時代鍛われたね。
滝  すいぶんなぐられた人がいるが坂口さんとぼくはなぐられなかつた。
北村 ぼくはなぐられたらなぐり返してやめようと思つていましたよ。(笑声)
板口 島田さ人に鍛えられたのは合成の建設を受持つていて釘を拾わされました。
  「日本窒素は貧乏だ。一本の釘でも逃がしてはいかん」と言つて,足許に来て
  から島田さんが,釘を拾われる。しようがないからぽくも拾つたし,人夫を雇
  つて釘を拾わしましたよ。
   とにかくいろいろなことで倹約したですよ。
白石 ぼくは社宅の廊下にガラス戸を入れてくれといつておこられた。
永里 そうだ「君は白石君の家だけ特別に造るのかね。設計と違う。君等のいる家
  よりいいぞ。ガラスでもなんでもみな違う」といわれましたよ。(笑声)
堆谷 白石さんの家だけは離れていましたね。
永里 前後するがはじめて行つた時,麦畑の中に工場建設敷地という柱を建て,こ
  んな中に工場が建つかと思つて威慨無量だつた。
   南延岡駅までしか汽車がなかつたので,荷物が来ると全部そこに降して運ん
  だ。レールを引いて運澱するまでは非常な労働でした。社員もなにもみな駅前
  におつた。
   あのレールを引く間に一軒売つてくれない人がおつて,樋口か誰かが島田さ
  んにおこられた。買収できないため引込線がずいぶんと廻らねばならないとい
  うのです。
 
倉員 大正11年五ヶ瀬発電所の仕様書を書かされましたが,もう一つ日本水電の
  8,000KWの発電所と五ヶ瀬の12,000KWとどつちがいいかということで,
  大きいほうがよいといつた。五ヶ瀬には島田というやかましいのがいるからキ
  ットなぐられるというが,行きましようといつた。その時機械を五ケ瀬に持つ
  ていくのに船を造り,底の平たい船でウインチで巻きあげ,それから牛で引く
  その頃はみな社員なんぞも牛追いにいつた時もあつた。
片桐 北村さんとぼくはいつしよだつたですからね,「君達はどこへ行つてもいい
  邪魔にならないようにしろ」と言われましたなあ。
北村 みなよく働く煉瓦ずみだつた。(笑声)
坂口 12年に40人採つたよ。
片桐 2吋のシャフトを金切鋸でびけというので,1日がかりでひいたこともあり
  ましたよ。
   野口さんは延岡には来なかつたんですか。
永里 その後は来られなかつた。
白石 3ケ月に1回位鏡時代は来られたが,延岡時代はだいたい来られなかつた。
  不便だつたからかもしれない。
永里 重岡までは自動車でしじゆう迎えに行つたんじやないですか。
片桐 皇后陛下(当時良子女王)が宮崎県下においでになつた時,工場の自動車が招
  集されたが,県下で一番よい自動車で県の自動車よりいいということだつた。
滝  自動車については山下という運転手が思い出されるが,これが面白い。わた
  くしと永里君の2人が恒富の村会議員に出た時です。選挙日に大島さんが宮崎
  に出張中でしたが,社員,準社員を地盤に立候補した永里君がダメかなあとい
  うことになつたとき汽車で帰つては間に合わないので山下運転手が四元という
  頑強な用心棒を乗せて途中まで大島さんを迎えるということであつたんです。
  富高駅で引きずり降して(笑声)ハドソソ号に乗せ砂塵を発てて一路ダーツと
  飛ばし,行くべき先は恒富ということで突ッ走つたのです。(笑声)
大島 途中豚や鶏をひき殺すやら大変でしたよ。(笑声)
 
滝  時計をみるとちようど4時5分ぐらい前であつたが向うから砂塵をあげて,や
  つて来た車があつた拍手かつさい,そしてちようど2,3分前に役場の前に停つ
  た。さつそくかけつけるとオープンだつたが車内は血だらけである。山下運転
  手は蒼白な顔になつている。こぶが一ぱいで,大島さんはおれはだれに入れる
  かというんで,それは永里君です。 ぐずぐずいつてはおられない時間がないか
  ら早くといつて投票を済ませて出てみると四元君の鼻がなくなつていた。これ
  には驚いた。同乗の大島さんの話をきくと,オープンの幌型で骨がある大変な
  バウンドでつかまるが,びどいバウンドで天井にぶつかるので骨で鼻を削つた
大島 その時ぼくもこぶができね,滝さんがうしろを向いて四元君の鼻がないじや
  ないかという,横からみたら鼻がない。(笑声)
滝  それですぐ松本東という病院にいつて治療したが,こちらは立候補している
  から挨拶して見舞にいつてみたら,治療がすつかり済んで,もとの鼻よりもり
  つぱになつていた。
大島 パラピンで恰好が良くなつた。これを称して選挙鼻談という。(笑声)
永里 それはありがたい「ハナバナ」しいじやないかというところですよ。(大笑)
滝  このために永里君の得票数は1票だに違わず30何票かありました。
   私は労働党から職工を地盤に出て政談演説,政見発表をさかんにやつて滝儀
  三最高得点問題なしということであつた。まア事実そういう得票でありました
  が,ふたをあけたら,さすがに山本彌右工門さんが最高点でした。廷岡に行く
  まで他人の土地を通らないでいけたという大地主でした。次はもう1人地主で
  ぼくが3人目だつたが,2票か3票しか違わなかつた。大地主というカは実に
  強いものだつた。
大島 土地決定には山本,日吉さんは功労者ですよ。
永里 下駄をはいて洋服を着て役場に行く,「ご苦労さんです」という。
   いざ話になるとなかなかしつかりしていた。大島さんの土地買収に柘植とい
  う男が間違いを起したんですが,2人の引継の時に日吉発治さんのところにい
  くと,「それはあなたがたの責任,大島さんの責任ですよ」とズバッといつた
 
  土地の買収でいろいろと山本,日吉さんと接渉したが非常に徹底していて,「会
  社にも柘植問題がありますからね」と会社をあまり信用しないんですよ。
大島 柘植というのは非常に実直な人で女房もあるし,そ人な馬鹿なことをすると
  は思わなかつたが使いこんだ。ぽくの便箋の書きそこないに,その大島を一寸
  くらい切つて,「右の者にお支払下され度候なり」と委任状式のことを書いて
  銀行に持つて行つた。銀行は柘植がしじゆういつているから見たところ悪いこ
  とをしそうにもないので係が何の気なしに渡した。
   ひと月かふた月かして姿をくらました。銀行でも係がくぴになりました。り
  つぱな委任状なら銀行の係も責任がないが,紙きれにちよつと書いたのを信用
  したというのです。
   別府か,どこかにいつて豪遊していてすぐ捕らせした。
片桐 ここらで実際製造の話に移りたいと思います。カザレー,サンタゴスチーノ
  ドットウ…フランチスキーたちが当時延岡にまいりましたがこれらについて…
白石 サンタはアンモニア合成法の技師として来ました。
永里 サンタはまじめな人でしたね,ドットウは職工あがりだから遊び好きでした
  日曜の晩にはぼくの家に来て遊びに行こうというんです。
滝  ぼくがそのほうの係だつたですよ。
永里 カザレーがハンドルを廻した時は爆発するというので,今日は延岡中どうな
  るかわからないということであつたが,アンモニアができたということで万才
  だつた。
大島 爆発といううわさがたつたね。
片桐 最初には2交替でやつて9月28日3交替に入つていせすね。
白石 カザレーがいたのはいつ頃ですか。
片桐 来たのが9月10日頃ですか。
北村 11月に帰つたでしよう。
白石 秋に阿蘇山に行つたですよ。その時,ぽくと工藤ともう1人誰か,とにかく
  4〜5人でおともしていつて阿蘇山にあがつたら「白石さんに忠告する」と言う
 
  「この火力発電の権利を早くとれ,野口さ人に勧めて水力の時代は過ぎて火力
  発電の時代が来る。権利を早くとれ」といつた。火山発電ですよ。そういうこ
  とをいつたよ。
倉員 イタリアには大きをものがあるからね。
永里 カザレーが横浜についた時は震災があつた。
白石 横浜が燃えとつたので上陸できす阪神に廻つた。
   初めはヒートコイルが焼けて連続運転が出来ない。み人なだめぢやないかと
  いつたらドットウが「芋を掘るのと違う」といつて怒つたですよ。(笑声)
坂口 とにかくヒートコイルの予算を半期に60本も組んだですよ。
北村 コンプレッサーがなつていなかつた。
坂口 シリンダーがすぐに割れるし,島田さ人が真鋳のシリンダーを造つた。そし
  たら味噌漉のように水が漏る。(大笑声)
   島田さんの処へ行つて漏りますよといつたら,「おれが造つたのは漏るはす
  がない」という。それでも味噌漉のように漏りますがといつて大笑いした。そ
  の次に真鋳のシリンダーにバルブの処だけ内輪をくりぬいた,ライナーみたい
  なものをはめた。
   はじめに割れたのは4段か,それから3段か,あろいは逆かも知れないが。
片桐 あの頃硫安で3交代していたが,アンモニアが来たと思うとすぐに来なくな
  るありさまです。
坂口 1ケ月くらいで3段,また4段が割れるんです。
北村 順調にいけばよかつたんです。それでも報告はうそを言わねばならない。い
  くら,いくらの割でできているとね。
永里 機械の故障ですか。
坂口 コンバーターとコンプレッサーですよ。
片桐 1日生産は3,300立,10分間に平均55立できるが,止るのがいけないんで
  すよ。(大笑)
北村 ぽくの考えでは,野口さんがああいう成績ですぐに増設されたのが不思議で
 
  す。
永里 できることが決つていたからでしよう。
北村 決めたのはすぐに決めたんです。
白石 次の芝浦三菱のロータリーコンバーターは良かつたね。
永里 堀抜き井戸を造つたのは。
白石 五ヶ瀬から取るよらも,そのほうが安くつくということでしよう。
坂口 合成の裏に掘抜屋が来て堀つたですね。
片桐 次に北門の処に大きな井戸を掘つたが,大体よく出たですよ。五ケ瀬から取
  つたのはずいぶん後ですよ。
永里 あんな工場を造つて水を引かずにポンプでいく積りだつたですかね。それか
  ら井戸が大いにためになつたのは,電解工場が火事を起してあの井戸で消した
  ほかはないんじやないんですか。
倉員 電気ボイラーを据えて焼突のない工場を造るということがはじめて行われま
  したね。
片桐 電気ボイラーは硫安係が管理して最初の運転士がぼくなんですよ。あの坂口
  さん設計の蒸溜水のバーチカルは何年くらい動かしたですかね。
市山 昭和10年近くまで動かしたですよ。
坂口 専売局があゝいう設計は1年くらいしかもたないというんです。鉄じやない
  かというんですが,あなたがたがとめたりまわしたりするから,とめた時に水
  と空気の接触で故障もあるので,金惜しみしないでやれば故障はないといつた
  んですが……
片桐 13〜14年動いていますかね。
   次にカザレーの成功で水俣をカザレー法に切替える事情について白石さんか
  らどうぞ。
白石 コスト計算をしたら延岡工場の硫安が40円で何ケ月目かにできた。当時,
  石灰窒素からの硫安は90何円かかつた。40円でできるから,石灰窒素から
  はつまらない,鏡工場をやめたらどうか,水俣は合成アンモニアに変えようと
 
  いうので変つたのです。同時に電力の大きい処を見つけて大スケールでやろう
  というのが,野口さんの構想で,屋久島,東北,北陸では只見川,庄川,九頭亀
  川,その他いろいろ候補地はあつたが結局屋久島を調査しようというところへ
  森田さんが見え,朝鮮の話が出た。ちようど時間的にピシャツとしたわけで,
  森田さんがだれかに話したら,それは野口に頼めということで野口さんに鮮鮮
  にこういう電力があるということで,こつちも採している時でよかつたわけで
  す。
片桐 そこでら”7瓲半”から20瓲にいつたわけですか。
白石 そう,カザレーが延岡でやつたのを順次に大きくしてイタリアでは20瓲の
  自信を得たということをいつて来ておった。それじや20瓲でその方注がよい
  というわけです。要するに電力の豊富にあるところでやろうじやないかという
  わけで朝鮮に見に行こうということになつたんです。
片桐 硫安が次に延岡でできた頃は内地の値段が450円ですか。
白右 いや,150円だ,延岡でできる前までは,大正8,9年は400円までいつたけ
  ど。
片桐 そうですか,130円でしばらく足踏みしたこともあつたようですね。
白石 40円でできて150円で売つたらもうかりますよ。
片桐 延岡は40〜50円,昭和3年には40円を切りましたな。水俣は30円で延
  岡は40円を切らねばいけないと,よくいわれました。
白石 延岡が成功したとたんに鏡を売って水俣です。
倉貝 水俣と朝鮮とは並行的だったでしよう。
北村 鏡でほんとうに過燐酸をやる気があつたかどうか,ゼスチェアのような気が
  するが。
白石 石灰窒素は買いに来たから売りり硫酸工場だけ残った。
   ところが硫酸工場はありあまるほどある。過燐酸でもつくらねばしようがな
  い,80万円かなんかでたゝき売つた訳で,過燐酸があまり,工場があまつて
  困つた。また向うで野口さんにやらしては困るというのであわてて硫酸工場を
 
  買つた。こつちはそれがよかつた。
北村 水俣のスタートは15年暮です。
白石 僕等が朝鮮に行つたのは15年です。
片桐 硝酸をやろと決つたのはいつですか。
白石 アンモニアができたので,アンモニアからできるものを何かやろう。最初は
  液体アンモニアで,谷口さんが日本製氷かなにかに行つて交渉したら日本の液
  体アン毛ニアはだめだといつた。分析を見ても悪くないといつたらどまかしは
  だめだということで,相手にしなかつた。それでもだいぶ苦労して,とにかく
  使つてくれるというので,売り込んだ。また,藤本武が「白石さん,アンモニ
  ア水はどうか」ということで,大阪工場も見にいつた。硫安を買つて来て石灰
  水で分解して,アンモニアを出してそれを水に吸収させていた。そこでアンモ
  エアができているから水に吸わせればよいというので,蒸溜水にアンモニアを
  突込んで送つた。
   はじめ,ドラム缶に詰めて送つたがだめだつた。ドラム缶の掃除が悪かつた
  のでそれを注意してやつた。
   次に硝酸ということになつた。硝酸はアンモニアからドイツではつくつてい
  るから,これをやるべしということであつた。これは友人の窒素研究所の黒田
  という人が来て,「窒素研究所を縮小し工業試験所に併合することになつたか
  ら君のほうで硝酸をやる意志があるなら,アンモニア酸化をやつていね村山と
  いう人がいるが,とらないか」ということで,野口さんにこういう人がある
  といつたら雇うということになつた。そして村山さんが来て硝酸工場をはじめ
  た。これがだんだんうまくいつて村山式硝酸工場になつた。
北村 いまから考えるアンモニアと合成がわりあいうまくいつたのは,電解水素を
  使つていたことによるですね。
永里 あの証拠保仝というのには,ぴつくりしましたね。
北村 大正14年ですかね。
永里 あの当時の話をすると,ぼくらは仝然判らなかつた。丁君という門衛だつた
 
  か突然大勢の人間が工場に侵入して来たというのです。いつて見たところが写
  真の脚を立てたらなんかしてやつている。 こちらも谷口さんがやれというの
  で,咤嘩腰でやつたが,どうにもこうにもしようがない。
滝  合成工場にまつしぐらに来た。そして傍観しているとき,森弁護士からぼく
  に電話がかかた。実はいま大さわぎしている。花岡法学博士がいろいろな技術
  者を連れて来て,延岡の矢追判事になにか談判交渉している。なんだろうかと
  いつてるという。そこで話をしていたら,ぞろぞろ出ていく。これはどういう
  意味か,いつたい法律上できることかどうかというと,証拠保全というわけだ
  から,適確な法律をもつてすれば自由に裁判所の許可を得て入れる。その行く
  間,絶対に秘密にしなければならないものだ。工場におしえようもわかりよう
  もない。
永里 すぐ裁判所にいつて谷口さんが矢追さんにどういうわけかといつたが,われ
  われも特許を持つてい為し向うも持つている。こんなに簡単に入れるはずがな
  い,不思議だといつたがはじまらない。私は法律にのつとつてやりましたとい
  うんです。
北村 矢追さんじやないよ。な人とかいう判事ですよ。ぽくがいつて見たらだれが
  判事かわからない,堂々たるやつを捕えて聞いたら,花岡という大将だつた。
  証人調べをやつたね。
片桐 現像しろしないでもめ,立会つて現像しろということでした。
北柑 谷口さんが全部ぴつぱり出して,写真を撮つていた。それでだれが来たかは
  つきりした。
片桐 白石さん,クロードの方がアンモニアの一滴は早く出たんですが,公示は向
  うが早かつたんですか。
北柑 神戸の鈴木商店で買い込人で没落したので,それを三井に売ろうとした。そ
  れからカザレー法はクロード法の侵害だということになつたんです。
永里 証拠を掴むには,裁判所の許可を得て自由に入つていいということになつて
  いる。それを花岡という弁護士は非常に研究して証斑保全に利用したわけです
 
  来た技術者は磯部なんとかですよ。
北村 磯部はクロードの常務ですよ。
白石 クロードのほうの折衝は,アメリカの学校を出ていたからやつていた。
北紆 鑑定人があつて決つた数しか入れないじやないかというと,鑑定人には鑑定
  補助をつけていい,たくさん補助を連れていつたというわけです。
永里 花岡というのは大先生で,延岡の裁判所もどうにもならなかつた。
奴口 延岡の裁判所がごまかされたんでしよう。
北村 いや実は判事がうちにも特許があることを知らなかつたんですよ。うちにも
  あると言つたら何もいわなくなつた。一方的に話をきいたわけですよ。
永里 実際にこつちにも特許があることを知らなかつたのだろう。向うの一方的の
  話をきいただけで,そのためあの判事はまちがつたということで転勤左遷にな
  ったということですが,こちらは確にやられましたね。
坂口白石 みんな知らなかつたんですよ。
永里 あの晩みなが寄つて丁君にどうして入つて来たか。だれの責任かということ
  せでいつたんですが,丁君は非常に責任を感じてどうなるでしようかといつた。
  どうもこうもない裁判所がした以上裁判所を捕えるわけにはいかないというこ
  とだつたんです。
北村 あくる日また来るぞというので部屋をそとから釘づけにしてしまつた。
永里 腕力で白梅が捕えましようかといつたが,正当な法律でやつた以上どうにも
  ならない。よく知らないが,花岡という弁護士はなにもかも,すつかり調べあ
  げて田舎の裁判所なら結構やれるというのでやつたらしかつた。
片桐 狙うのと狙われるもので,狙われるほうがスキがあつたんでしよう。(笑声)
北村 前から調べていたのが判らなかつたんだ。
片桐 彦島のアンモニアの出たのは,うちよらおそいでしよう。
永里 野口さ人に報告したら簡単な言葉で「できるほうが訴えるならいゝが,でき
  ないほうが訴えるのはおかしいものだ」といいましたよ。(笑声)
片桐 椎谷さん何か想い出話を。
 
椎谷 永里さ人が倉庫出荷係長兼務で私は出荷係にいました。あの当時は硫安の相
  場は輸入豆粕に左右されるわけで,豆粒肥料が多かつたですよ。
片桐 硫安の製造高が日本国で12〜3万トンですかな,大正12−3年の仝体の使
  用量は25万トンで輸入が半分だから。
椎谷 とにかく相場の変動がはげしくて3円あがつたかと思うと,2円下るという
  状態でしね。そして販売は延岡などでもやはり代理店みたいな肥料店になりた
  いというのがあつた。喜多伊三郎という人が代理店になつたが,延岡地方はま
  だ使わないのでいくらも出ない。いまひとつ延岡蚕糸というものがあつて肥料
  をやつており,宮崎に日向殖産という会社があつて,そこでもやつていました
  が,季節的な商品だから,けつきよく冬の間にたまる。だんだん硫安の山を高
  くして天井に届くようになる。叭に入れたがはじめは宮崎県に叭ができないの
  で,みな熊本から持つて来たものです。
片桐 大正13年かに電解電力が10,000A通つているね。
市山 1月17 日には電解が10,000Aですよ。
片桐 大正13年の春肥にようやく間に合いましたなあ。
永里 ぼくは叭にはすいぶんと苦労しましたよ。叭の規格は鏡を基準にしてその時
  作つたんですが,縦縄の数を減らしたりなんかしてね。
椎谷 永里さんから叭の話があらましたが,浜田茂惣治という連中と契約すると叭
  はあつても硫安ができないということで,いつも叭が余つていろということも
  ありました。
永里 それから容器で困つたのは液体アンモニアですよ。液体アンモニアは日本で
  やつたことがないのでね。
片桐 アンモニアの最初の分析は北村さんがやつたんですか。
北村 わたしはだいぶいじめられましたよ。
永里 ボンベの数がきまつている。おそろしく高いので谷口さんが一々番号をつけ
  るといつて,それが返るのを待つて修理をしなければならない。
片桐 液体アンモニアの使用先からもどつて来た容器には,沢山まだ残つている。
 
  こういうようにして使用するというので,工藤さんがコーチにいつた。
   あとで青木さんが主になつていた。
永里 バルブを買つたのはあとで,最初は口が変なものだつたね。
滝  圧縮瓦斯液化瓦斯取締法があつたが,あれはそもそも延岡工場をモデルにし
  て大島義清先生が主体になつて法律化したもので,そういういきさつを工場の
  工藤さんはじめみな知つている。ところが県庁に渡辺某というのがおつて,そ
  れが来て盛んに取締る。工藤さんと大島先生から教え込まれているからなんだ
  ということで馬鹿にしてかかつたものだから,渡辺某が怒つて真青な顔になつ
  て,席を蹴つて帰えるということで,その結末をぽくがやらされて仲直りに大
  変だつた。
椎谷 青木さんはボンベ回収のほうでした。
永里 あの頃どこかの駅で漏れたというので,島田さんから君の荷造りはだめだと
  いわれたこともありましたよ。しかしあの法律は延岡工場のためにつくつたよ
  うなものです。
滝  ほかにテストするところがなかつた。それから日本ではじめての合成という
  ことでずいぶんといろいろのかたが見え,ただその時の思い出として谷口さん
  が工場の図面配置図をキチンととつていて,もちろんこれは大阪からの指図が
  ないと見せないが,事移所ができない前の仮バラックの土間の自分の机の抽出
  に入れていた。そこへ前もつて大阪から手紙が来ていたが,仙石貢さんと各務
  幸一郎さんが来られて,谷口さんが出て挨拶された。仙石さんが「工場の配置
  図を見せ給え」といつた。そしたら「ハツ」といつて,しまつてあるのをひろ
  げた。「ぽくがああやつてチヤント配置図を抽出に入れていて仙石さんの前て
  見せることができなかつたら落第だ」といわれた。
   その時遊船に案内しろとのことで,案内役を谷口さんからぼくが仰せつかつ
  た。そこで,ぼくと仙石さんと各務さんが遊船に乗つて鮎を食つたが,その時
  に仙石さんが小さい鮎を,「鮎は香の魚で生で食べるのがいい」といつて生で
  食べた。ぼくも食べたが,あの2人が日向熱になつたのは,あれが原因です。
 
  大きなチブスというか本チブスをやつた。
   その遊船の中で仙石さんが女どもをつかまえて,ぼくに「滝君,いい都々逸を
  おしえてやろう」と「久し振りだよ,なにからさきに,おかんつけよか帯解こ
  か……君どうだ,どつちにするか」といつた。僕は「両方ともいいですなア」
  といつた(笑声)その晩船からあがつて延岡の芸者に宣伝したことを,今でも
  覚えていますよ。
大島 その時僕は宮崎まで出迎えた。各務幸一郎さんは一ツ橋の先輩です。そして
  仙石さんは幸一郎さんより10年くらいまた先輩です。昔話をしていたのを聞
  いていたんですが。
  「ぽくが東京に出たのはたしか明治7年か6年かで,大井川を渡るのに着物を
  ぬいで頭にのつけてザブザプ歩いた」という話をきいてぽくらは唖然とした。
  それからあの日向熱は幸一郎さんだけで仙石さんはかからなかつた。
片桐 カザレーの印象的なことを。
永里 カザレーは人物的に非常に偉いでしよう。
白石 人格者ですよ。温順ですよ。
永里 眼のとてもきれいな人でしたよ。ぼくにサインして写真をくれた。サンタも
  くれたが……サンタは延岡の街なんか下駄をはいて散歩していると好なおもち
  や屋に入つたりなんかして,英語が少ししやべれるくらいの人でエクスペンス
  なんかの説明にどうしても分らないので困つた。
片桐 北村さんがドイツから帰つて薬品に変つたのはいつ頃ですか。
北村 昭和10年か11年です。
片桐 ソーダはできていましたか。
北村 できていましね。
片桐 昭和8年にスタートしているわけですが最初は片井信義という人がいたが。
倉員 大阪曹達から桑名という人が来たでしよう。
片桐 いや大阪曹達から片井でしよう。調味料は昭和9年ですかな。
市山 昭和9年より研究されて本格的には昭和10年1月からです。
 
片桐 朝鮮でやるというので私は朝鮮に行くことになり,送別会までしてもらつて
  オジャンになつた。
北村 朝鮮でどんどんと工事が進んだ。そうしたら延岡ではできない。堀内君の計
  算書があるが,これはできないじやないか。延岡でできないのなら朝鮮でもで
  きないというので,朝鮮に行くことはやめろということになつた。
   そこで白石さんに頼んで技術会議で,もう一度やらせてくださいと頼んだ。
  12〜3年でしたか。
白石 最初いもでやるようにして調味料を当時の朝鮮軍司令官の植田さんが来られ
  た時に,これをとつたあとの澱粉は兵隊に食わせたといつたら,植田さんが憤
  慨して,味をとつた味のないようなものを軍隊に食わせるというのはどういう
  考えかといいましたよ(笑声)
片桐 調味料は北村さんがいつてからは順調ですか。
北村 堀内君が運が悪いので自分が朝鮮で設計しているから出て歩いて,あとの人
  がうまくやつておらなかつたんですよ。
坂口 調味料についていろいろ面白い話がありますね,そもそもはじめて味の素
  が売り出された時は評判は大したものだつた。野口さんの家で漬物にかけたと
  き,そ人なものは食うなというんです。蛇だというのです。事実そういう評判
  が東京市内にあつて,味の素の工場は夜になると貨車が入る。あれにはみな蛇
  が一ばい入つている。それをむし焼きにして粉にしねものだと,ぽくらもそれ
  を軽く信じていた。(笑声)野口さんはほんとうに信じていた。それから,し
  ばらくたつて京城にいつて昭和8年ですか,扇家で晩めしのときに,君なめて
  みいというのです。延岡でできたこれと,これを比較してみろということでな
  めてみると,なるほどおいしい。実際にあなたがたの前でお世辞をいうのじや
  ないが,おいしかつた。これなら確かにうまいというので感心したんです。
大島 野口さんはそういうことをよく信ずる人だつたのですよ。
片桐 調味料をやる原因は塩素の消費ということですな。独禁法はなかつたし,延
  岡工場としては,ソーダ工業をやつて今まで金をかけて捨てていた塩素を捨て
 
  てはいけないということから,調味料で塩素消費をやらねばならないというこ
  とです。
北村 グルタミン酸ソーダは鈴木があまり大きくなり過ぎて……
片桐 現在のところ鈴木さんが味の素で月産にして300瓲くらいやれる。うちが20,
  瓲,うちもやろとすると100瓲くらいにして……。
北村 ほとんど仝部が輸出でしよう。アメリカへ大部分いつているでしよう。
片桐 約4割です。
北村 アメリカが買わないとオジャンになり日本じやとても消化しきれない。
永里 アメリカではなぜつくらないんです。
片桐 向うでもつくつていますが。
北村 大部分は輸入する。
片桐 カナダでグル曹をやるというので,技術をもらえないかという詰もあらます
永里 延岡工場関係で地方の人は何人くらいいますか,もうほとんどいませんか。
市山 伊東正次郎,田野源次,伊藤吉五郎,西森熊吉さんぐらいでしよう。
北村 もう4人ですね。
永里 従業員はだいぶおつたが年森君はどうしていますか。
市山 停年でやめて七助さんは建築設計会社のようなものをやつてるし,年森栄さ
  んは市会議員です。
片桐 長い間いろいろどうもありがとうどざいました。
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