1.緒言
化学工業は金属製錬工業とともに古い歴史をもつ素材製造工業であり,産業界の主役である.近年,その主役が付加価値の少ないこと,世界の無秩序生産などのために企業妙味に欠けるとしてその座を降ろされんとしている.素材なくて何が工業か産業か.エネルギーと素材の上に製造業が成り立ち,その製品によって人間生活の衣食住が支えられている.
産業人や産業とかかわり合いの深い学者はこれから人類永遠の存続のために自らに課されている使命の中で,生存のための必須の命題と,あれば生活が便利になるにすぎない命題とをよく洞察し,それぞれの立場に応じた役割を演じなければならないと思Lう,
筆者は本年3月末まで,長年国立人学という国費に支えられた境遇に置かれ,世間の天賦に恵まれた子弟を教える光栄に浴してさた.そして教壇から学界,工業界の多くの先達が使命感に燃え,情熱あふれる努力を積み重ねて日本の化学工業を発展させてきた歴史を話すたびに,その草創の光芒が今まさに消えさらんとするおそれを感じてきた.
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為政者には政治史が,軍師には戦史が,そして化学技術者には化学工業史が必須の知識である.昨今,化字工業の歴史をうとんずるために,開発命題を追うときにそれが既に多くの先人が挑戦し,技術評価が出たものを再度とりあげてみたり,新命題がどのような開発価値があるのか,どのような点に問題点がありそうなのか,将来どのような波及効果が予想されるのか判断できないのではないかとおそれも感じられる.
さらには,近代日本化学工業の貴重な歴史が埋没するのはしのびないものがある.広い意味の日本の化学工業の発祥を1857年(安政4年)南部藩の大島高任氏によって釜石郊外の大橋ではじめられた洋式製鉄をもって囁矢とするならば,本年は130年目になる.また,1872年(明治5年)大阪において大蔵省造幣寮が貨幣製造のために硫酸を製造しはじめた時点とするならば115年目になる.歴史が100年近くになると記録も消失してきて考古学的な対象になってくる.
このような2〜3の例を挙げてみる.日本のソーダ工業は1880年(明治13年)に大蔵省印刷局が紙幣などの用紙の製造のためにソーダ灰の製造を行ったのがはじめであるとされている.化学史に関する著書の中には大蔵省紙幣局と記してあるものもあり,工場が建設された場所も丸の内,あるいは大手町などと同一ではない.大蔵省印刷局記念館(新宿区市谷本村町9−5)の加藤利夫氏
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