”カザレー法アンモニア合成−創業の風光と建設−”完稿によせて
【化学工業、1987(7),74より抜粋】
岡部 泰次郎
Taijiro Okabe 元東北大学工学部教授 工学博士
 
1.緒言

 化学工業は金属製錬工業とともに古い歴史をもつ素材製造工業であり,産業界の主役である.近年,その主役が付加価値の少ないこと,世界の無秩序生産などのために企業妙味に欠けるとしてその座を降ろされんとしている.素材なくて何が工業か産業か.エネルギーと素材の上に製造業が成り立ち,その製品によって人間生活の衣食住が支えられている.
 産業人や産業とかかわり合いの深い学者はこれから人類永遠の存続のために自らに課されている使命の中で,生存のための必須の命題と,あれば生活が便利になるにすぎない命題とをよく洞察し,それぞれの立場に応じた役割を演じなければならないと思Lう,
 筆者は本年3月末まで,長年国立人学という国費に支えられた境遇に置かれ,世間の天賦に恵まれた子弟を教える光栄に浴してさた.そして教壇から学界,工業界の多くの先達が使命感に燃え,情熱あふれる努力を積み重ねて日本の化学工業を発展させてきた歴史を話すたびに,その草創の光芒が今まさに消えさらんとするおそれを感じてきた.

 
 為政者には政治史が,軍師には戦史が,そして化学技術者には化学工業史が必須の知識である.昨今,化字工業の歴史をうとんずるために,開発命題を追うときにそれが既に多くの先人が挑戦し,技術評価が出たものを再度とりあげてみたり,新命題がどのような開発価値があるのか,どのような点に問題点がありそうなのか,将来どのような波及効果が予想されるのか判断できないのではないかとおそれも感じられる.
 さらには,近代日本化学工業の貴重な歴史が埋没するのはしのびないものがある.広い意味の日本の化学工業の発祥を1857年(安政4年)南部藩の大島高任氏によって釜石郊外の大橋ではじめられた洋式製鉄をもって囁矢とするならば,本年は130年目になる.また,1872年(明治5年)大阪において大蔵省造幣寮が貨幣製造のために硫酸を製造しはじめた時点とするならば115年目になる.歴史が100年近くになると記録も消失してきて考古学的な対象になってくる.
 このような2〜3の例を挙げてみる.日本のソーダ工業は1880年(明治13年)に大蔵省印刷局が紙幣などの用紙の製造のためにソーダ灰の製造を行ったのがはじめであるとされている.化学史に関する著書の中には大蔵省紙幣局と記してあるものもあり,工場が建設された場所も丸の内,あるいは大手町などと同一ではない.大蔵省印刷局記念館(新宿区市谷本村町9−5)の加藤利夫氏
 
より寄せられた資料によると印刷局名は明治の初頭に次のように変遷をしている。
 明治04年07月27日 大蔵省紙幣司
 明治04年08月10日 大蔵省紙幣寮
 明治10年01月11日 大蔵省紙幣局
 明治11年12月10日 大蔵省印刷局
 明治31年11月01日 内閣印刷局
 これよりすると所管官庁の名称は当時大蔵省印刷局が正しいことになる.所在場所は紙幣司の時代に皇居内の大蔵省の一室であり,ついで大蔵省の移転に伴って1871年(明治4年)8月3日神田橋御門内の酒井雅楽頭邸跡に,さらに12月12日馬場先門前の土木寮(林大学頭邸跡,現在の丸の内二丁目千代田ビル付近)に移った.その後,ここが火事で消失したり,手狭であったために再び神田橋の方に移転している.明治8年の東京第壱大区小区分絵図によると紙幣寮は“大手町二丁目”から“トキハハシ”(常盤橋)の地に亘つてあり,酒井左エ門および松平越前の屋敷跡を使っている.これは現在の大手町一,二丁目であるから,発祥の地は大手町というのが正しかろう.近代ビルの林立する日本経済の中心街の大手町に,悪臭の最たる塩酸,塩素を発生するソーダ工場が一世紀前に存在したとは想像するだに難しい.
 日本の元素リンの製造は1913年(大正2年),電炉工業〔日本化学工業鰍フ前身〕により東京工業試験所の北脇市太郎氏の研究成果をもとに,創業者棚橋寅五郎氏が静岡県富士川左岸の芝富村で工業化された.当時,同地にあった製紙会社の余剰電力を利用するためであった.化学史には現在も地名のある芝川の名称が用いられている.製紙工場は四日市製紙→王子製紙且ナ川工場→芝川製紙→新富士製紙と変遷しており,現在の製紙工場にはリン工場の存在を知る人はいない.このリン製造技術は1914年のはじめに東京府南葛飾郡小名木川にあった日本化学工業鰍フ工場に移し,さらにその後の1919年(大正8年)郡山に新工場を建設操業するに至っている.現在でも小名木川は江東区に残っているが工場の所在地は判明しない.この辺の事情は後に同社の大内義男氏より紹介があるものと思う.またリンの製造については1914年(大正3年)に富士電化工業鰍ェ静岡県江尻において開始し,その後1916年(大正5年)に東京・
 
日暮里に工場を建設したといわれているが,所在場所その他参考になる資料はない.上記小名木川のほとりを散策すると大島町一丁目の横十間川脇に遊園地風の釜屋堀公園がある.ここは1888年(明治21年)日本ではじめて東京人造肥料鰍ノより過リン酸石灰が工業化された場所である.当時は南葛飾郡大島村甲14,15番地の地名であるため,東京地図の葛飾区内を探したくなるが,現在は江東区であるから見当るはずはない.亀戸駅前のタクシーはもとより,駅前の交番ですら釜屋掘の起源や場所を明示してはくれない.
 筆者は教壇側より化学工業の一端に触れた者の一人として,化学工業史をまとめんものと数年前より調査しはじめた.幸いに長年片手間に入手した雑誌その他に掲載された記事や,工場見学で目にふれたモニュメントの記憶があったため,一人でも何とかまとめられるであろうと安易に考えていた.しかし,いざ取材をはじめてみると世の中には草創期を身をもって体験された方々,すでにその体験に基づいて素晴しい著作を出されている方々,さらには社史編纂にたずさわったり,詳細な考証の上に得意とする分野の産業史をまとめられている文筆に優れた方々のおられることを知った.そして,1社の社史編纂にしてからが何人かの人達が豊富な資料をもとに数年の歳月をかけてやっとまとめあげるもので,個人が日本の草創史の全貌を数年でまとめることなど至難であると悟ったのである.
 そこで,このたびこれまでにお目にかかった方々と相計り,できる限り社史にない草創期のエピソードや秘話を中心に,それぞれ得意とする分野を担当執筆して頂き,シリーズとして本誌に順次に発表し,これが終了時点で完本とする企画を立てた次第である.このシリーズの幕の上る前の予備知識として執筆を予定されている一部の方々のプロフィルの一端を披露してみる.
 

 2.執筆を予定されている一部の方々
 市山幸作氏〔元旭化成梶l:昨年秋の10月17日,延岡を訪ね,薬品工場の峯福一課長らの調査に対する暖かい御配慮を頂いた.そして,カザレー法アンモニア合成の生き字引の方として紹介された

 
のが市山幸作氏である.氏は1923年(大正12年)に入社され,建設当初よりカザレー法にたずさわってきた方である.氏の改良したカザレー法を特徴づけるインジェクター(ガス循環器)も昔の図面をもとに復元され,合成塔,ガス圧縮機とともに美事に整備され,薬品工場の構内を飾ってい
 
る.“薬品工場創業50周年の思い出”と題して,昭和48年10月2日より12月28日まで38回に互り地元夕刊紙に連載された氏の記事は,同工場の建設・操業・社会情勢を綿密詳細に描写していて貴重な資料である.今回,本シリーズの1番手として御登場願うが,その内容は上記夕刊連載記事の
 
別題名“創業の風光”のハイライト集と御准察申し上げる.

 一方井(いつかたい)卓雄氏〔元昭和電工梶l:日本のアルミニウム工業は1934年(昭和9年),日本電気工業鰍ノよって生産が始められた.これに一年余後れて住友アルミニウム精錬鰍熕カ産を開始している.昨年2月7日,昭和電工鰍謔阨ェ離していた新生の昭和軽金属鰍ノアルミニウム工業草創期のことについて問い合せたところ,中山三平著“アルミニウムに死す”(日経印刷製作,私的出版,昭和56年)を紹介された.中山三平はペンネームであり,本名は一方井卓雄氏であった.483頁に及ぶ著書の冒頭に
 「アルミニウムに死んだ米村貞雄のために
  アルミニウムに魅せられて生涯を捧げた多く
   の人のために
  今もアルミニウムを愛しているであろう人た
   ちのために」
と記されている.内容は氏の敬慕する故米村貞雄氏の人物伝であるが,日本のアルミニウム工業の草創史を見事に描写している.格調の高いその筆致は感動的であり,この書を一気呵成に読破させる.氏は本シリーズの企画に大いに御賛同下さって世話人を引受けられ,企画グループの精神的な主柱である.
 江崎正直氏〔三井東庄化学兜F島業所〕:一昨年の新緑したたる5月20日,彦島を訪れた.約25年前に訪れたときはクロード法プラントの残骸が海岸壁に放置されていた.これの行方をたずねたところ,玄関前に案内され,アンモニア分離器と合成塔台盤が立派に記念品として飾られているのを拝見した.また江崎正直所長の執念によって昭和60年に刊行された“彦工60年史”は長い間の工業所の歴史を浮きぼりにしている.本シリーズの2番手として御登場願うが,前記カザレー法と対比するとき,興味は倍増するものと思う.
 大内義男氏〔日本化学工業梶l:伝統ある日本化学工業鰍代表して執筆者として御登場を願うとともに,本シリーズの世話役ならび連絡役を一手に引受けて頂いた.現在,同社の70年史編纂の貫任者であり,豊富な資料をもとに同社の長い歴史をつづられている.また,元素リンや溶成リン肥の技術体験者であり,氏の記事は大いに期待さ

 
れる.
 大塚英二氏〔三井東庄化学梶l:三井東庄化学鰍ヘ肥料用大量尿素生産プロセスの世界のパイオニアーである.三井東庄化学を除いては尿素工業を語ることはできない.氏は三井東庄化学の研究開発の総帥として技術陣を率いておられたが,尿素技術の開発においても氏の得意とされる理論解析を駆使され,同社の今日の洗練されたプロセスを完成された.また,北海道大学,九州大学などの教壇にも長年立たれ,産学両道に深い造詣をもたれている方である.
 倉田一良氏〔元住友金属工業梶l:“住友”は京都の銅商“泉屋”を起源とする.その社業を直系として継ぐのが住友金属鉱山鰍ナあり,1888年(明治21年)惣開(現在の新居浜の地)に銅の洋式製錬を開始した。その山麓に半地下式の別子銅山記念館がある.昨年10月15日にここを訪れ尾藤和雄館長の親切な御案内をうけた.そして氏から紹介されたのが倉田一良氏と,氏が中心となってまとめられた写真でつゞる住友史といえる“住友の風土”〔住友商事兜メ集発行,昭和60年〕である.紙数僅か120頁とはいえ筆者がまさにかねてから期待したと同様な見事な産業史である.400年に亘る住友の歴史をあますところなく描写している.
 鶴田利行氏〔硫酸協会〕:硫酸協会発行の“硫酸と工業”誌の編集責任者であり,このほか同協会発行の“硫酸便覧”,日本化学会編”化学便覧応用化学編”(丸善発行)の度々の編集執筆をされ,該博な化学工業の知識をもっておられる方である.本シリーズの連絡会議はすべて硫酸協会の応接室あるいは会議室を無償借用させ頂いている.厚く感謝の意を表する次第である.
 福島克之氏〔元帝人梶l:帝人は日本ビスコースレーヨンの創始会社である.しかし,今はその生産は行っていない.去る3月13日,霞ヶ関にある帝人竃{社の広報室を訪れ,社史のコピーおよび帝人を描いた“道をひらく”(昭和43年発行)を頂いた.後者の執筆者が福島克之氏である.帝人の歩みは福島氏の著作に詳細に記録されている.氏の筆致は前記一方井氏や倉田氏と比肩される魅力あふれるものである.
 宗像英二氏〔元旭化成梶l:原子力研究所の理
 
事長もつとめられ,日本化学工業界の元老である.氏の名声はつとに著名であり,若輩の筆者がいまさら下手な紹介の文をのせるのは失礼というものであろう.氏の技術哲学と技術開発の歩みはその著書“化学の研究と工業化”(日刊工葉新聞社発行,昭和39年),あるいは“道は歩いた後にある”(東京化学同人,昭和61年)などに述べられている.近年,余りにもトピックスを追う技術開発が多く,創造性に富む新技術がみられないことを感じるにつけ,氏のつねに荒野に道を拓いてきた歩みには満腔からの敬意を表するものである.技術開発は本邦初演で満足してはならぬ.世界初演であることが望ましい.
以上執筆される一部の方々のプロフィルを
 
紹介申し上げたが,このほか発起人会や企業より御推薦して頂いたそれぞれの分野における最適任者の執筆が予定されている.未定の部分も一部にはあるが,判っている限り表にして御紹介申し上げる.なお,参考のために発祥地の地図も添付した。執筆事項と整合しないところもあるかも知れないが御諒承願いたい.さらに1分野1〜3回に亘って掲載されることになっているので完結までに2〜3年を要するものと思われる.読者の長期に亘るあたたかい御支援を願う次第である.
 最後に,本企画を気持ちよく御引受け頂いた化学工業社ならびに取締役編集長中野清氏に深く謝意を表する次第である.